鹿鳴館1

「鹿鳴館跡」(鹿鳴館時代発祥の地)

有名な割に4年しか使われなかった鹿鳴館

★ジャンル【文化】
★場所 千代田区内幸町1−1−7
★最寄駅 東京メトロ日比谷駅

これまでの東京23区発祥の地一覧

★碑文
「ここはもと薩摩の装束屋敷の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった その中に明治十六年鹿鳴館が建てられ いわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった」

★解説
 帝国ホテルのとなり、NBF日比谷ビル(旧大和生命ビル)の帝国ホテル側の壁にあります。
 「発祥」としては、「鹿鳴館時代」の発祥なのですが、それにしても「鹿鳴館時代」なんてあまりなじみがないですよね。ウィキペディアなどによると、鹿鳴館ができてから、その運営を主導した外務大臣井上馨(いのうえ かおる)が辞任するまで、1883年(明治16年)から1887年(明治20年)のわずか4年足らずのことです。
 外務卿から初代外務大臣となった井上馨は、欧米列強との不平等条約改正を最大の課題に掲げ、そのための欧化政策、つまり日本が文明国であると諸外国に認めさせるための政策を次々と実施します。その一つが鹿鳴館による社交界の確立でした。
 建物は有名なジョサイア・コンドルの設計による煉瓦造り2階建ての洋風建築で、1階が大食堂など、2階が舞踏室でした。建物や利用は洋風でしたが名前は漢学からです。「鹿鳴」とは「詩経」にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す言葉だそうです。

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