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「蔵前工業学園之蹟」(東京工大発祥の地)

「蔵前工業学園」という学校はなかった

★ジャンル【学校】
★場所 台東区蔵前1−4−3
★最寄駅 都営地下鉄蔵前駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「浅草蔵前ノ地ニ東京職工学校ヲ創設セラレタルハ実ニ明治十四年ノ事ニ属ス。爾来歳ヲ閲スルコト六十二星霜、技術者ヲ輩出スルコト万ヲ超エ、此間時勢ノ進運ニ伴ヒ校名ヲ明治二十三年東京工業学校ニ、同三十四年東京高等工業学校ニ改メラレタルガ、偶々大正十二年大震ニ遭ヒ、其復興ヲ企図スルニ当リ、寧ロ都心ヲ離レテ郊外ノ地ヲ卜スルニ若カズトナシ、翌十三年大岡山ノ地ニ移リ、昭和四年昇格シテ東京工業大学ト呼称セラルルニ至ル。其校門ヲ出ヅル者、何レモ質実剛健ノ校風ヲ継承シテ、今ヤ所謂蔵前出身ノ技術者ハ、全東亜ニ亘リテ建設ノ重要部門ヲ担ヒ、各其特色ヲ発揮シテ産業報国ノ実ヲ昂揚シツツアルハ、世ノ等シク認ムル所ナリ。然ルニ此工業発祥ノ地トモ謂フベキ蔵前学園ノ蹟ニ至リテハ、既ニ全ク変貌シテ其面影ヲ偲ブニ由ナク、今ニシテ之レヲ表示スルニ非ラザレバ、此由緒深キ学園ノ地モ、逐ニ湮滅セラレンコトヲ惧ル。恰モ好シ、往年其正門所在地付近一帯ハ榊神社ノ境内トナリ、之レヲ標識スルニ便アリ。是ニ於テ本会ハ神社関係者ト相図リ、石ニ刻シテ其地蹟ヲ表シ以テ蔵前工業学園ノ蹟ヲ永ク後世ニ伝ヘントス」

説明板の解説
「本石碑は、当地にあった東京高等工業学校(現東京工業大学)を記念し、工業教育発祥の地として同窓会の蔵前工業会が建立したものである。当校は、工業指導者の養成を目的として、明治十四年五月東京職工学校として創設され、明治二十三年三月東京工業学校、明治三十四年東京高等工業学校と改称された。当校は、常に日本の工業教育の指導的地位にあり、また、多くの留学生を教育するなど、科学技術の発展に貢献し、東京の出身者は「蔵前の出身」という愛称で重用された。しかし、大正十二年九月の関東大震災により、校舎、工場等が灰塵に帰したため、学校当局は、当地での再建を断念、目黒区大岡山に移転した。当地の敷地は、正門の位置に建てられている本石碑を中心に、隅田川に沿って面積四万三千平方メートルに及んでいた。側面に「昭和十八年三月吉日社団法人蔵前工業会建立」裏面に「永田秀次郎選」の碑文が刻されている」

★解説
 都営地下鉄の浅草線蔵前駅から江戸通りを南に下り、須賀橋交番前交差点を左に折れた榊神社内にあります。大江戸線の蔵前駅は非常に遠いのでご注意ください。
 解説では1881年(明治14年)の創設とありますが、東京職工学校には前身があります。1874年(明治7年)に中等程度の実用的な技術教育をする機関として、ドイツから来たワグネルらの建言で東京開成学校内に「製作学教場」というものが作られます。しかしこれはわずか3年で廃止されてしまいます。
 その後工部大学校を併合した開成学校での工業教育が学問研究の側面を強めていったため、実務的な工業教育の必要性が高まり、ワグネルらの運動もあって東京職工学校の設立につながります。
 しかし「職工」という名前が旧来の徒弟制度を思わせたため、1890年(明治23年)に東京工業学校と改称します。この後は職工長、企業家などを続々輩出し、日本の工業化に貢献します。そして「蔵前出身」と言えば東京工業学校出身者を指すようになり、「煙突のあるところ蔵前人あり」などと言われるほどでした。
 さらに1901年(明治34年)に東京高等工業学校に改組され、1903年(明治36年)には高等教育機関との位置づけになります。
 この頃の学校は、碑の建つ榊神社周辺にありましたが、1923年(大正12

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