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神様の縄張りが区の境に

23区全区境踏破第7回

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前回は、聖橋を渡ってください、というところで終わりました。
区境はどこを通っているかというと、飯田橋駅から聖橋までずっと神田川の真ん中です。
ところが聖橋を渡って右側、下流の秋葉原側に降りて神田川沿いを進んでいくと、丸の内線が神田川を跨ぐ高架を過ぎたあたりで突如区境は左に折れて上陸してきます。
上陸地点は湯島聖堂の前の外堀通りです。
さらに区境は外堀通り真ん中で右に曲がり、続いて湯島聖堂脇の昌平坂に左折していきます。
なんで神田川から離れてしまうのでしょう?
しかも上陸したらすぐに曲がる・・・

神田川を船で行くとすぐわかるのですが、丸の内線の高架を過ぎるとすぐ、左側にぎっしりと店舗が立ち並ぶようになります。
このお店たちの住所は千代田区です。
それまで水道橋から先には建造物はありませんでした。
あったとしたら住所は文京区ですね。
実はこのあたりの人家は江戸時代からあり、昌平河岸と呼ばれる荷揚げ地でした。
明治以降も同じ地名で存続します。神田松住町という町の南側になります。
行政区としては神田区、戦後は千代田区となります。

一方、湯島聖堂は江戸時代は幕府公式の「学問所」であり、その敷地は現在の湯島聖堂にとどまらず、東京医科歯科大学(まもなく東京科学大学)の敷地全てを含んでいました。
そしてこちらは本郷区の所属となり、戦後は文京区になります。
町人の土地があった河岸部分は神田区になり、お上の部分は本郷区になったわけです。

昌平坂に入った区境はすぐまた右に曲がるのですが、これが右にある路地に素直に入るのではなく、路地の少し先で建物の立ち並ぶ中に入り、路地の北側に少し出っ張りを作ってからまた折れ曲がって、路地の線に戻ってきます。

なんでこんなややこしいのか?
江戸時代は路地の北側は「湯島一丁目」という町人地でした。
この湯島一丁目は「湯島」地域であるということで本郷区となります。
南は先の松住町です。
江戸時代、その境はやや左側が出っ張った形をしており、現地の路地は後からできたようです(震災後?)。
このため路地が真っ直ぐ通されると北に取り残された松住町部分ができ、そこは千代田区となったようです。

丸の内線車両の上あたりの建物手前が区境

路地を抜けるとやや広い道に出ますが、この道は江戸時代には中山道でした。
今、中山道=国道17号は昌平橋からまっすぐの道に変わっています。
ここを左に行くと、すぐに「神田明神下」交差点から曲がってくる国道17号と合流します。
区境は中山道の北にある江戸時代からの「湯島一丁目」の北側を通っていますが、道がないので中山道を登ります。
するとまもなく右手に巨大な鳥居が見えてきます。
江戸・東京の二大鎮守の一つ、神田明神です。
鳥居の下に江戸時代から続く甘酒屋「天野屋」があります。
その裏の細い道が実は旧中山道です。
小さな掲示もあります。

旧中山道の左側の部分は江戸時代は実は学問所の敷地、あるいは敷地前の道でした。
そこをまっすぐに突っ切って新しい国道17号を通したのです。
神田明神の鳥居前からは旧中山道が区境です。
しかし道はすぐに坂道に行き当たり、これが区境となり右に曲がります。
坂は関東大震災後に切り開かれたもので、中山道は少し先に続き左に曲がっていました。

坂はすぐに広い蔵前橋通りに出ますが、区境はその右手前で右側の建物群の中に通じています。
この蔵前橋通りも震災後にできた通りなので、従来の境界には頓着なくまっすぐに作られました。
では従来の境はなんでできたかというと、神田明神の敷地である丘の部分と、その裾野にあった旗本屋敷の境です。
先ほど曲がった坂上から、千石から五千石クラスの上級旗本の屋敷が四つ、神田明神の裾野に沿って並んでいました。
建物群内は通れないので、蔵前橋通りを右に、東方向に進みます。
まもなく右に茶色いタイルの大きなビルがあり、その先の右側に急階段があり、神田明神裏参道との石標が建っています。
大きなビルの住居表示は千代田区ですが、本当はビルの前面部分は文京区です。
階段も途中まで文京区で、蔵前橋通りを少し過ぎたところで通りを反対側に突っ切り、渡ったらすぐに左に曲がって、すぐの角から登る階段坂が区境です。

この階段は面白いです。
階段の右は千代田区、左側は文京区ですが、左側だけに文京区設置の手すりがあります。
仲良く両側設置とはいかなかったのですね。
この境は、どうも先ほど紹介した旗本屋敷同士の境だったようです。

さてここまでの区境、妙にクネクネしてきました。
なんでこうなったのか?
歩けばすぐに気がつくかと思いますが、神田明神の敷地とその周辺をぐるっと迂回してきたのです。
神田明神を千代田区に取り込むための境と言ってもいいでしょう。
神田明神は江戸の二大鎮守と言いました。
江戸城南西、裏鬼門側の日枝山王権現とともに江戸を守ってきました。
その氏子地域は神田・日本橋・大手町・丸の内と現在の千代田区の主要部分です。
また神田明神の旧地は大手町の将門塚で、今も神田祭の神輿は必ず将門塚を通ります。その神田明神が、いくら外堀の外にあるからといって神田区から外すことはできなかったのです。
神田明神の敷地と氏子地域は、行政区域としても一体にならざるを得ませんでした。

しかし神田明神の近くには、負けず劣らず古い神社があります。
湯島天神です。
こちらは旧本郷区から現在は文京区。
1500年ほどの歴史を持ち、移転していません。
より古くからこの辺りにあったのは湯島天神で、そこに神田明神が移ってきたのです。
「湯島」と名がつく場所は湯島天神の氏子地域であり、そこもまた湯島天神と同じ行政区域でないと困るわけです。
先の湯島一丁目は湯島天神の氏子地域であり、そのため本郷区から文京区になりました。
湯島を本郷区に取り込みつつ、神田明神社地とその周辺を神田区にすると、これまで見てきたややこしい区境になりました。

さらにややこしいことに、現在では湯島1丁目の2、3番地と裏門脇の13番地は文京区ですが神田明神の氏子地域です。
古代からの神様の縄張りが、現代の行政区域にも反映されているのです。

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