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埋めた外堀に細長いビルの列

23区全区境踏破第14回

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前回、JR高架下の「日比谷OKUROJI」「銀座裏コリドー」を通って幸橋ガードまで来ました。
ここで西側、千代田区側に出ましょう。
するとこれまで通ってきた高架の外側が煉瓦造りになっているのが見えます。
これは明治時代の1909年にほぼ完成した、東京駅付近まで鉄道を通すために作られた日本初の高架鉄道です。
120年近く経った煉瓦高架なのですがいまだに現役です。
もちろん鉄筋コンクリートなどでの耐震補強は行われていますが、関東大震災などでもびくともしませんでした。
当時の地名で浜松町近くの「新銭座」から東京駅北の「永楽町」まで作られたため、正式には「新永間市街線高架橋」といい、日本土木学会が選んだ土木遺産になっています。
明治政府は当初、汐留にある旧新橋駅から中央通り沿いに上野駅まで鉄道を通すつもりでしたが、江戸時代以来の密集市街地だったため断念。
旧新橋駅手前から線路を曲げ、旧江戸城外堀内側に鉄道を通し、現在の東京駅を中央停車場として建設し、上野に繋ぐことにしました。
上野との連絡は1925年と、大変時間がかかりましたが、東京駅は1914年に完成しています。
土地が軟弱地盤だったため、1万9000本もの松杭を地下に打って基礎を安定させています。

現在の幸橋ガードの通りは江戸時代には東西に走る堀に面した南側の道路部分でした。
JRの高架沿いの北側、有楽町駅側に戻ると、煉瓦高架の向かいには第一ホテル東京があります。
ホテルの北側が区境なのですが、これは江戸城の外堀の北側の縁がここにあったからです。
江戸城の幸橋門は、JR高架脇の道路あたりから新幸橋ビルディング前の広場にかけてありました。
区境である第一ホテル東京と新幸橋ビルディングの間に道に入って行きます。
すると気がつくのが、第一ホテル東京は南北の間口に対し、東西の敷地が長く、細長い長方形の敷地である、ということです。
これは第一ホテル東京が外堀を埋め立てた土地に立っているからです。
そして堀があった頃は堀の真ん中が麹町区と芝区の境でしたが、戦前に埋め立てが進んで建物が建っていくと、この部分では以前の堀の北側に境を変更し、少し先では南側に移しました。
建物の中を区境が通る不都合を解消したのですね。1932年、震災復興による街区整備の際のことです。
これまで見てきたJR東側の外堀埋め立ては戦後で、その時代にはもうそうした話し合いや合意、あるいは上からの決定の押し付けができなかったわけです。

大同生命ビルにある土地の変遷解説

千代田区側の住所は現在「内幸町」ですが、これは幸橋門の内側(江戸城側)の街だからですね。
かつての外堀ぞいの道を進んで日比谷通りを渡ります。
渡った左側にある「日比谷セントラルビル」の南西角に、いくつかの石垣が積んで保存してあります。
これは近くのビル工事の際に発掘された外堀石垣の石を再構成したもので、外堀工事を担当した大名家などの解説があります。
その先のビルは近年再開発されたばかりの「日比谷フォートタワー」ですが、このビルの外構にも工事で発掘された外堀石垣が展示されています。
またこのビルの西側で区境は左に曲がり、ビル南側の街路で通りを西に渡って右方向にまた曲がって行きます。
つまり区境が鍵状に曲がっていくのですが、曲がった先は今度は江戸時代には外堀の南側だったところになります。
ここが1932年に境を変更し調整した部分です。
この場所では実は江戸時代に外堀自体が真っ直ぐではなく、少しずれていました。
このため外堀跡に建っていた古いビルは敷地が斜めに曲がり、面白い形をしていました。

通りを渡った先の旧外堀上のビルは大同生命ビルで、区境はビルの南側ですが、ビル北側に、ビル敷地付近の土地の変遷が掲示してあります。
そのまま進むと桜田通りで、左手やや先が虎ノ門交差点です。
ここまで紹介したビル、振り返ってみるとみな細長ーいビルでした。
進んできた道の向かい側が文部科学省で、この桜田通り上に江戸城城門の「虎ノ門」がありました。
桜田通りは、旧東海道が整備される以前の、さらに古い中世の東海道で、ここはその街道を塞ぐ重要拠点でした。
区境は文科省側に渡ってその前で左に曲がります。
このラインは外堀の外側の縁のラインです。
そのことを示す驚きの印があるのですが、それはまた次回。

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