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「近代硝子工業発祥之地」(官営品川硝子製作所跡)

試行錯誤で発展した明治のガラス工業

★ジャンル【産業】 
★場所 品川区北品川4-11-5
★最寄駅 京浜急行新馬場駅

★碑文
「此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三條實美ノ家令丹羽正庸等ノ發起ニヨリ我國ニ始メテ英國ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ廣大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル 然ルニ最初ハ技術至難ノタメ經営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官營ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民營ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ己ムナキニ至ツタ 其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開發ニ貢獻シ本邦硝子工業今日ノ基礎原動力トナリ我國産業ノ興隆ニ寄與スル所顧ル大ナルモノガアッタ 吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ圖ッタガ會々此ノ擧ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ツテ今茲ニ由緒アル發祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ傅フルヲ得タノデアル」
 解説板「日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(一八七三)に東海寺境内に創設された興業社である。 興業社は、明治九年(一八七六)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり、全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(一八八五)には西村勝三 らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(一八九ニ)に解散した。 昭和三十六年(一九六一)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は、明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている」

★解説
 新馬場駅から山手通りを大崎駅方面に進み、JRのガードをくぐったすぐ右側、東海寺墓地の入口脇にあります。史跡の石柱は「硝子”製作”所」となっていますが、「品川硝子製造所」が正しいです。お役所も間違えるのですね。碑の敷地の隅には、ガラスの原料となる珪石が置いてあります。
 幕末の開国後、外国の侵略などの杞憂をよそに、日本は生糸の輸出などで大儲けします。しかしその一方で、武器はじめ西洋のあらゆる方面での便利で進んだ製品の輸入には莫大な対価が必要でした。そこで明治政府は「殖産興業」の名の下に、あらゆる工業製品の国産化を進めていきます。中でも重要物資はガラスでした。
 洋風建築の窓は必ずガラスでできています。板ガラスです。これは江戸時代の日本にはないもので、開国後しばらくは全て輸入に頼っていました。そこでこれも国産化を図るわけですが、こうした国産化事業は、成功すれば外国製品のように輸送費がかからない分大儲け間違いなしでした。
 ということで、この板ガラス製作事業は、明治新政府のトップと言ってもいい三条家の家令である丹羽正庸(にわ まさつね)が、独占的に事業をおこなって大儲けを目論んだ、と見えないこともないです。
 しかし事業や工業の知識がないものが取り組んで成功するわけもなく3年

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