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瞑想/書き物/読書 ティク・ナット・ハン/ミヒャエル・エンデ/西田幾多郎/井筒俊彦/八…

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瞑想/書き物/読書 ティク・ナット・ハン/ミヒャエル・エンデ/西田幾多郎/井筒俊彦/八木誠一/河合隼雄/池田晶子

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  • 西田幾多郎『場所』を読む

最近の記事

つべこべ言わず、黙って坐れ。

お釈迦さんの『法句経』を声に出して読んでいると、明恵の「ある"べき"やわは」の雰囲気が、少しだけ身に融けた心地がする。 そこには「あるがまま」という言葉にあるような、のんべんだらりと寄りかかろうとする気の抜けた感じはない。背筋を伸ばし凛とした姿勢がある。 「あるがまま」も「赦し」も「癒し」も「愛」も「平安」も、ある種高次の現実性の開示ではあるのだろう。わたしはその体験を疑うものではない。 が、これらのものへと、粘着的にべとついた憧れを抱いて、すがり続けるなら、ふぬけた無

    • 時間の速度と、子供の頃と同じ生の充実について

      「年を取ると時間が過ぎる速さが速くなる」という言説を、20歳を少しすぎたころまで信じていたし実感していた。今は信じていないし実感もない。 というか、そもそも「年を取ると時間が過ぎる速さが速くなる」という命題自体が何を意味しているのかよくわからない。そこから考えてみよう。 基本的な数式を確認すると、 「速さ×時間=距離」であって、つまり、 「速さ=距離÷時間」である。 要するに、速さとは単位時間あたりに進む距離の事である。 したがって、「時間の速さ」とは、単位時間あたり

      • 栄冠は君に輝く

        高校時代、全校生徒で球場に応援に行った。 グラウンドを翔ける球児に私たちがときめき、憧れたのは、彼らの内に燃える青春を観たからだ。それは私たち自身のものでもあった。 甲子園の魅力は、野球と言うゲームそのものより、ときめきと感傷の追体験にある。 夏が終わって引退した野球部は、どんどん髪が伸び、普通の人になった。

        • 大人になるということは

          大人になるということは、自分の中にあるこどもを、認めることができるようになるということだと、私は思う。 こどもっぽさというのは、楽しいときは笑う、悲しいときに泣く、というような自由奔放な美しさだけを言うのではない。自分より下と思う人を見下す原始的な序列感情や攻撃性、相手の立場を顧みず単純な物差しで人を判断するような自己中心性なども含む。自分の中のこどもというのは、寂しさ、心細さ、不安、依存心などなど、弱さを抱えた存在でもある。 14歳のわたしは自分が子供であることを認めら

        つべこべ言わず、黙って坐れ。

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        • 西田幾多郎『場所』を読む
          3本

        記事

          仕事の失敗で自分を責め続けるという執着心

          先週は、仕事上の失敗や不足点が相次いで指摘、発覚し、ボロボロに打ちのめされた。今もその打撃の振動は残っていて、やや解離めいた非現実感がある。過去の後悔と自己不信に、低く低く、吸い込まれていくような感じになっている。 「必要な失敗とはこれのことだ」とまでは行かないけれども、「これも必要な失敗であったのかもしれない」とは、思い始めてはいる。自転車に乗れるようになるまでに、何度もバランスを崩し、時に膝をすりむくように、そして、その手痛い経験こそが、学習のための糧であるように。人生

          仕事の失敗で自分を責め続けるという執着心

          宇宙から吹き込む哀しさ

          夕暮れて、リリリリリ、と虫が鳴く。すっかり秋だ。 細い坂道を登っていくと、民家の窓から風呂の石鹸の香りが、一瞬鼻をかすめた。子どもの頃を思い出す、なつかしくあたたかい香り。そこに誰かが暮らしている。生活の気配がする。ふるぼけたアパートから伝わる人の生活の気配は、秋の寂しい風と、遠い宇宙の気配に包まれ、独特に交じり合う。刹那、胸中に生起したのは、ある種の哀しさと虚しさだった。 かつて、大きな都市で生活していたことがある。毎日電車の人ごみにもまれ、星の見えないビルの林の間を歩い

          宇宙から吹き込む哀しさ

          現代においてスピリチュアリティをどう人生に位置付けるか

           現代において、スピリチュアリティ(霊性)をどのように人生に位置付け、生きていくかということは、大切なテーマであると思う。  今や伝統的は宗教はそれだけでは権威を持ちえず、アクチュアルなものとみなされない。他方で、書店には「精神世界」「スピリチュアル」コーナーに新刊本があふれるてはいるが…。また、オウム真理教の地下鉄サリン事件、9.11同時多発テロに始まる一連の国際的な争いなど、制度化された信念共同体としての宗教が持ちうる危うさを、私たちはよく知っている。    スピリチ

          現代においてスピリチュアリティをどう人生に位置付けるか

          東京五輪始まる。エゴイズムと人類への貢献

          東京五輪が始まりました。 「勝負」の「勝ち負け」を越えた価値、および「エゴイズム」との関連について整理しておきたいと思い、キーボードをたたいています。 わたしは普段さほどスポーツに関心があるわけではありませんが、夏の甲子園は例外的に好んで見ています。高校球児が全身全霊を賭してプレーする姿は何物も代えがたい。わずかに残された青春の「とき」が燃え、尽きていく1試合1試合が、ある種の美的感覚を漂わせているように感じられるからです。勝負の世界において、「勝ったか負けたか」だけが重要

          東京五輪始まる。エゴイズムと人類への貢献

          季節雑感

          家のすぐ裏手には神社がある。 こんもりとした小高い見晴らしの上にある神社で、わたしの家は、その神社に上る急こう配の、古い石の階段に面している。神社の正面入り口ではなく、裏手の入り口にあたるため、幸いにして人通りはほぼなく、静かである。 朝は、小鳥の声で目を覚ます日もある。 神社周辺は桜を始めとした木々に取り囲まれているから、鳥にとっては好都合な居場所なのだろう。パジャマのままベランダに出ると、葉をさらさらと鳴らす風が肌に触れる。天気が良ければ海の波がきらめいているのが見え、

          季節雑感

          【哲学】我は純なる作用の統一なり。西田幾多郎の『場所』を読む2

          西田幾多郎の『場所』論文を読んでいきます。 難解と言われる西田ワールドを、日常の生活経験と結びつけ理解することが目標です。 この記事の趣旨について↓ ※ここでは、岩波文庫から出ている、上田閑照先生・編の 『場所・私と汝 他六篇 西田幾多郎哲学論集Ⅰ』 を使って読みます。ページ数はすべて、これによるものです。 今回読めたのは、文庫版67ページ、7行から68ページ4行目までです。 ざっと復習します。前回記事 現今の認識論においては、対象、内容、作用が区別される。 しかし

          【哲学】我は純なる作用の統一なり。西田幾多郎の『場所』を読む2

          【哲学】「現今の認識論」から突如として始まる 西田幾多郎の『場所』を読む1

          西田幾多郎の『場所』論文を読んでいきます。 難解と言われる西田ワールドを、日常の生活経験と結びつけ理解することが目標です。 ※ここでは、岩波文庫から出ている、上田閑照先生・編の 『場所・私と汝 他六篇 西田幾多郎哲学論集Ⅰ』 を使って読みます。ページ数はすべて、これによるものです。 この記事の趣旨について↓ 論文は、突如として始まる。認識論…?さっそく、文庫67ページの冒頭から。話しは突如として、「現今の認識論において、…」と、始まります。なぜ唐突にこのような話から始ま

          【哲学】「現今の認識論」から突如として始まる 西田幾多郎の『場所』を読む1

          西田幾多郎の『場所』論文を読む

          西田幾多郎のごく簡単な紹介西田幾多郎(1870-1945)は、明治生まれの日本の哲学者。 処女作『善の研究』は日本で初めての哲学書とも言われます。 彼は在家でしたが、熱心に参禅をしていた人でもあり、その意味で東洋的な伝統にしっかり身を浸していた人です。他方、「哲学」は言うまでもなく、古代ギリシア生まれの西洋産。明治・大正・昭和と、国全体として西洋の学問・文化を取り入れつつ、しまいには戦争まで始めてしまうあの時代、西田も西洋の学問・文化(プラトン、アリストテレス、キリスト教、カ

          西田幾多郎の『場所』論文を読む

          空のどこかに。『続・豚の死なない日』

          「よい本というのは、読むたびに新しい発見があるものです。」 わたしは13歳の時、親の転勤のため遠くの街に引越しを余儀なくされた。引越しが近づいてきたとき、幼いころから近くで見守って下さった、とある初老の女性が、上のメッセージと共に贈ってくださったのが、ロバート・ニュートン・ペックの『豚の死なない日』『続・豚の死なない日』である。静かで温かく、牧歌的な農村風景と共に、「食べていく」ための厳しい現実が描かれる作品だ。 (…) 主人公は、13歳の少年、ロバート。 父、母、叔母

          空のどこかに。『続・豚の死なない日』

          物語と詩

          物語は時間の契機を必要とするが、詩は必ずしもそうでない。 物語は、過去の出来事を順序だて、諸々の出来事の意義を語り、未来の可能性を指し示す。対して詩は、無意味が完全なる意味の充実に等しい瞬間的切片を開示し得る。「古池や蛙飛びこむ水の音」。 「"生きる"とは、物語である」 「"生きる"とは、詩である」 これらの命題は異なる二つの人生態度を述べている。 一方では、生はそれ自身の意味を構成し行く過程であるが、他方では、生は瞬間の非意味な充実の感受として在る。

          物語と詩

          人間みずたまり理論

          雨上がりのみずたまりは、そこにひとつの世界を映し出す。 となりのみずたまりをのぞくと、そこにもまたひとつの世界が映っている。 どのみずたまりも、それぞれひとつずつの世界を持っていて、 それぞれ別に世界を映しているけれども、 それでもやはり、同じ、ひとつの世界を映している。 わたしたちはみな、みずたまりだ、と考えてみる。 わたしたちは、毎朝目を覚ますと、そこ(目)には、ひとつの世界が映っている。深く眠っていた時、世界はどこへ行っていたのだろう。わからないけれどともあれ、毎朝

          人間みずたまり理論

          夢想なくしてたましいは

          ふだん仕事をしていて思う。わたしは、実務家としては全く有能ではないという事実を受け入れていかねばならないと。 かといってわたしは、実務家に対して「理論家」ですらなく、実のところは単なる「夢想家」にすぎないのでないか、と己を訝る。 そして人類の中に、わたしのような類の人間が存在するという事に、どのような意味があるのだろう、と考える。現実に効果的に対処すること、求められる実務に対応すること(例えば枝の先にある木の実を取ることや、仲間の背中についているノミをとること)こそが、生

          夢想なくしてたましいは