※note創作大賞2024「お仕事小説部門」応募作品_お仕事ショートストーリー【営業課長の心得帖】003「2つの自分軸」
「【2つの軸】、ですか?」
鴻池弥生(こうのいけやよい)は、カフェオレが注がれたマグカップを、リビングのテーブルの上に置いて尋ねた。
『そう、鴻池さんには是非、2つの軸を持って欲しいな』
ハンズフリーにしたスマホから、京田辺一登の優しい声が届いてくる。
仕事で少し行き詰まっていた彼女は、昔同じゼミで慕っていた2つ上の先輩のことを思い出し、平日の遅い時間にも関わらず思い切って電話を掛けてみたのだ。
「芯をしっかり持つことは大切だと思いますが、軸とは何でしょうか?それも2つ」
少し混乱気味の弥生は、解を求めてみた。
『ひとつは【仕事の自分軸】。鴻池さんが社会人になって、日々仕事を頑張っている中でどんどん伸ばしているものだね』
彼女の気持ちを察したのか、京田辺は説明を始めた。
『このような人になりたい、と明確なキャリアターゲットが居れば、どんどん軸は伸ばしていけるのだけれど、実はもう一つ大切なことがあるんだ』
彼の話を聞いて、カフェオレをひと口含んだ弥生は、ふと思いついたことを言葉にしてみる。
「軸が、折れてしまわないことでしょうか?」
『正解』
悪戯っぽい彼の口調に、ああ、先輩は変わっていないなぁ、と懐かしい気持ちで胸が一杯になる。
『仕事だからと言って全て上手くいくことはない。制約条件や阻害要因、影響されること、転勤や昇進などのキャリアステージなど、揺らぐことは沢山あるよね』
少し間を空けて、京田辺が言葉を続ける。
『俺はね、どれだけ揺らいでも軸の中心がブレなければ大丈夫、と考えているんだ』
彼の言葉に、今回彼女が鬱屈とした気持ちになったトリガーである、隣課の同僚の嫌味顔は、サラサラと音を立てて消えていった。
「それでいいんですか?私、凄いミスをして色んな人に迷惑を掛けたのに……」
『ミスはキチンと認めて反省することも必要だよ。その気持ちを次に活かすための強さとしなやかさの方が大事なんだからね』
弥生は、マグカップを持つ手にぐっと力を込めた。続きの話を早く聴きたくなる。
「そう、そうですね。それで先輩、もう一つの軸は?」
『もう一つは【人生の自分軸】。仕事の自分軸の下に位置しているイメージかな』
彼女が頭の中で、大きな樹の姿を思い描くまで待って話を続ける。
『楽しいことも、辛いことも、全て大切な経験と考える。それを糧として年輪のように太く、深い根を持った自分だけの軸を育てるんだよ』
「それは……とても素敵ですね」
カフェオレと共に身体の中に暖かい何かが流れ込んで来た弥生は、いつの間にかここ数週間忘れていた笑顔を取り戻していることを感じた。
「……先輩、有難うございました。私もう少し頑張ってみます」
時計を見ると、結構な時間が経っていた。これ以上は明日の仕事に響くだろうと考えた弥生は、少し名残惜しい気持ちを隅に置きながら通話を終えた。
(昔と変わらない。きっと、職場でもカッコいい上司なのだろうなぁ……)
「課長ぉ、何ずっと電話してたんスかぁ?」
京田辺が自分の席に戻った途端、瓶ビールを抱えて顔を真っ赤にした住道タツヤが早速絡んで来た。
「いや、ちょっと人生相談ってやつをだなぁ」
「あーずるいー!私も課長にもっと相談したいですー」
いつの間にか、冷酒を手酌でやっている四条畷紗季。顔色は全く変わらないが、完全に目が据わっている。
「おまえら……飲み過ぎだ」
「いいじゃないですか。今日は予算達成のお祝いなのですから、パーっと行きましょう!パーっと!」
(強さとしなやかさ……深く、太く……)
ビールグラスをタツヤに持たされ、四条畷から日本酒を並々と注がれた京田辺は、幾分顔を引き攣らせながら、心の中で2つの自分軸の定義を繰り返し、繰り返し唱えるのだった。
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