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展覧会 | 棟方志功展で見た ”生きる”

棟方志功は言いました。

「絵とは本来 絵空事。”花の絵”ではなく、”絵の花”をかく。

「棟方志功の眼」より

本当に自由な人なのだ、と今回訪れた展覧会でこの言葉を実感しました。

東京国立近代美術館で開催中の「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」に行ってきました。
小さい頃からどこかで作品は山ほど目にしてきたアーティスト。
広告・包装紙・教科書に至るまで、私たちはムナカタに囲まれた生活を送ってきたのだなあ、と改めて思います。

圧巻の「東北経鬼門譜」

お孫さんが研究・分析した書籍


展覧会に行く前に読んだ「棟方志功の眼」は、棟方志功のお孫さん、石井頼子さんによって書かれた一冊。
石井さんの肩書きは、”棟方志功研究家”です。

おじいちゃんの研究ってすごい。しかしこの本を読むとわかりますが
「棟方志功研究家」というご職業なので、完全に外から棟方志功という人を分析されています。

世界のムナカタが自分の祖父という人生。
それがどんな感覚なのかは想像もつかないですが、何より彼をライブで見てきた人ですから、この職業を選ばざるを得ませんね。

棟方志功の暮らした場所や制作は、日本の歴史そのままでした。
暮らしと制作が深く結びついていた事がよくわかる一冊です。
ご自分で見てきた場面や、棟方志功の様子、その時の空気感が随所に盛り込まれていて、とても面白く読ませて頂きました。

黒でバランスされる鮮明な色の群れ

そんな予習もあったわけなので、展覧会の展示作品とその時代や制作の背景と一致して見応えがありました。
展示作品はかなりのボリュームで、何より棟方志功がこだわった作品のサイズ感が実物で見ることができて迫力満点。

棟方志功というと、モノクロの版画なイメージでしたが、こんなにも色を鮮やかに使った人なのですね。黒との対比でその色はますます鮮明に、そして黒とのバランスがものすごく計算されています。
見ていて全然混乱しない。

屏風が作品を更に引き立てる

制作風景を見ていると、思いつきの殴り描きのように見えますが、頭の中で緻密な設計をされていることがよくわかります。
しかもどんなに大きな作品でも、描き始めがどこでも、全てお尻が見えているとしか思えない進行ぶりです。

確かに何にも残せない。説明もできない。
それがあるのは彼の頭の中に、だけ。
データの持ち出しもハッキングも不可能な、完璧セキュリティです。

藍とオレンジの格子屏風が、黒のバランスを際立たせる

棟方志功に感じる「生きる事」

ずっと作品を見て歩き、どこまで進んでも感じたのは
制作、というより「生きることへの”気合”」でした。
「やるべき事」とか「やれる事」というレベルではなく
表現せずにはいられない何かを抱えてしまった人は、それをアウトプットせずには生きていられない、のです。

それが「生きる事」だと思ったのは、どの時代も場所との繋がりをとても大事にされた作品を作り続けた人だから、です。

「二菩薩釈迦十大弟子」

どこか知らない所でもなく、空想の世界ではなく、棟方志功という人は地に根付いた人だと思いました。
どの作品もその地を踏んで作っている温度のようなもの・確かな何かがありました。それがものすごいパワーとなって見ているこちらに伝わってきます。
人が生きる場所、生きる行い、ってこういう事なのだ、と。

命の一滴まで使い切る人生

展覧会を見に行った日、偶然テレビで「生きる事と死」についての番組がありました。
棟方志功の血気・生きる力を感じ、少々興奮気味だった私は、こんな番組をつらつらと見始めましたが、その中で
「死ぬという事は、命の一滴まで使い、絞り切るんです」という言葉がありました。

まさにこういう言葉を見てきた感じがしたのです。

仏教の教えでも同じらしいですが、人は「息を吐いて始まり、吸って終わる」。赤ちゃんの時はオギャー!と息を吐いて人生を始め、
逝く時は息を吸って終わるのだそうです。
私はまだ親しい人を見送った事がありませんが、まさに「息をひきとる」という事なんですね。

棟方志功の作品にはこんなふうに息づかい、、というより、生きるために呼吸する力を感じました。

「花矢の柵」

「ウソで表さねば、表せない真実」

「棟方志功の眼」より

そんな現実と生き・向き合って表現してきた人が、本当に真実を伝えるために、一旦真実を自分のフィルターで漉して、形にしてきた事。
そんなものを今この2023年に目にすることができている私は、やっぱり生きている幸せを感じます。

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