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穴ホールコーポレーション

穴ホールコーポレーション

       
 小さな盆の窪がぽこりとへこんでいる。首筋は汗ばみ、黄色い帽子は背中に、顎の下でおさまるべきゴム紐は口の中で、ガムのように噛んでいる。伸びて波打ってしまう。また付けなおさなければならない。帽子用では事足りず、割安なパンツのゴムを使う。買い置きがまだあっただろうか。
 はるちゃん帰るよ。うん、もう少し。
 砂場でしゃがむ息子に声を掛ける。自然と触れあうという方針で、園庭は四季の草花に溢れ、入り口には桜が、砂場には金木犀が程よい陰を作る。落ちた花びらを拾い集め、おままごとをして遊ぶ子供達もいる。毎日登園してここに一番乗りするのも、一番後まで残り、促されて砂場を後にするのも息子の陽人だ。
 一人っ子で早生まれのため、三年保育の幼稚園に年中から入園した。馴染めないのではないかと心配したが、穏やかな性格のせいか大きな問題は無いまま、もう年長さんだ。今日も何事もなく一日が終わりそうだ。妊娠がわかった時から不安しか無かった。無事に産むことができるのか、生まれてからは、寝ている間に呼吸が止まっていないか、何度も起きて確かめた。歩けるようになれば、机の角にぶつけて頭がえぐれ、ベランダの窓からと飛び出して四肢がバラバラになり、自転車の幼児用補助椅子が外れて車に轢かれ、ロックを忘れた洗濯機に入り込んで水流に巻き込まれ、仕舞いそびれた包丁が柔らかな腹を刺し貫く想像が止まらなかった。私の頭の中で陽人は毎日死んでいた。好きだったホラー映画が観られなくなったのは、空想が遥かに先を行っていたからだ。
 はるちゃん帰るよ。もう少し。だめだよ、幼稚園閉まるから。お魚にごはん上げに行こう。うん。朝食の残りのパンを見せる。
 近くの公園の池の魚に餌をやるのが日課だ。時折、団栗や枯れ葉を拾いながら、手を繋いでそこまで行く。きょうねゆうきくんがねおそとのいしのたでだんごむしみつけてねおれもまねしていしとったらだんごむしいっぱいいてね。止まらない話をずっと聞くのも。
 「陽人くん、さようなら。また明日ね」
 副園長の太郎先生が通りすがりに声を掛ける。気がつくと園庭にはもう園児の姿は無い。 
 「陽人くんは穴ホールコーポレーションの社長だもんね。今日は帰って、明日また穴掘らなきゃね」うん先生。
 立ち上がった陽人の体が、ぐらりとバランスを崩した。足元の砂が引き潮のようにざっと崩れていく。ママ!何かに足を引っ張られている。陽人!駆け寄って手首を掴む。見る間に小さな体は砂に埋もれ、足、腹、肩、頭も沈む。誰か!助けを呼ぶ。掴んだ手首から先だけが砂から見えている。陽人!すべての力を振り絞って、腕ごと抜けてしまうのではないかと思うほどの力で引き抜いた。
 なんだよ、痛えな。
 細い体の少年が砂まみれで立っていた。誰なの?なんだよばばあ。息子の顔も忘れた?陽人?声変わりしたばかりの、ざらついた声が、私より頭ひとつ大きなところにある、まだらな髭と、にきびに縁取られた唇から吐き出される。細い目と低い鼻は確かに陽人だった。ちきしょう、砂だらけじゃないか。真新しいスニーカーの爪先でいらいらと砂を蹴り上げる。ってか、ここどこだよ。幼稚園の砂場?俺が通ってた?知らねえよ、そんなの。ちきしょうちきしょう。陽人が何にいらついているのか、さっぱりわからない。ちきしょうちきしょう。足先の砂がえぐれ、陽人の体がぐいと沈み込んだ。おい、なんだよこれ。まだほっそりとした手首を掴んだ。触るなばばあ。毎日触れあって生きているのに、陽人のぬくもりを感じたのは十年ぶりのような気がした。全体重をかけて、掴んだ手首を引き上げようとしたが、蟻地獄の様にずるずると滑り落ちてしまう。手が離れた。もうだめだ。
 「母さん」砂をよじ登って現れたのは、がっしりした体にスーツの青年だ。晴人? 
 「あ、ここ幼稚園の砂場かあ。久しぶりに来たよ」
 「久しぶり?」
 「ああ。俺、毎日、砂場で遊んでたろ、太郎先生に穴ホールコーポレーションなんて名前つけてもらってさ。この砂場の砂を全部掘ったら、地球の裏側まで行けるかなって思ってたよ。懐かしいな」
 「そう」
 懐かしい?陽人が盆の窪を見せて、砂場にしゃがみ込んでいたのは、数分前のことではなかったか。
 「それで俺、建設会社受けたんだ」
 「建設?」
 「うん、砂に水を混ぜてトンネルを掘るとき、どのくらい水を混ぜたら砂が固まって壊れないかとか、掘った砂をどこに運んでおいたら良いかとか、幼稚園の時ずっと考えてた。結局、変わってないんだな。しかしまさか太郎先生が俺の掘った落とし穴に落ちてくれるとは思わなかったな。あれ、すごかったんだよ、先生泥だらけになってさ。みんなが段ボールで作ったロボットが夜中に動いてた、って動画まで作って見せてくれたりもしたな。俺、ずっと信じてたわ」 
 話し出すと止まらない子だ。頬がこけて、細くなった顔に園児の面影が重なる。
 「で、俺、来月からパラグアイに行くことになった。橋を作る大きな仕事だから、当分戻れないと思う」
 「え、パラグアイ?」
 「うん、南米。マジで地球の裏側行くことになるとはね。そういえば、穴ホールコーポレーションってさ、穴とホールを引っかけてたの、さっき気がついたわ。二十年も経って」
 風が吹いた。金木犀の香りが一際濃くなった気がした。(了)

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