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見えないもの 見えるもの

2008/07/22
(この記事は2008年のものです)


今日は半月分の入院費を支払って、それから14時に病室で、介護保険区分変更申請のために調査員の方とお話をして、そのまま19時半まで病院に滞在した。

私が13時半ごろ病室に着くと、母は背中を向け、暗い顔をして横たわっていた。振り返るなり、「完全に壊れちゃった…」と言う。

ーー私の話を誰も信じてくれない。私の言うことは皆が全部否定する。「何もいないわよ、大丈夫だから安心して寝て」って看護師は言うーー

母はそう語る。抑肝散はまだ全然効かなくて(効かない人もいるだろう)、母の幻覚はピークを迎えているといえるだろうか。

母は床で這いまわりながら喧嘩をしている3匹の虫に、夜中防臭スプレーを吹きかける。いったんは死んだ虫はまた蘇り、母を悩ませる。ポータブルトイレがいつのまにかすり替わり、便座のつなぎ目の黒い金具や隙間の暗い部分からはたくさんの虫が溢れ出てくる。「ガンコ虫」だと呼ぶ。

母は見えないガンコ虫に向かって、ティシュで何度も拭い取ろうと手を動かす。「やっつけてやる」と小声で言う。だけどガンコ虫はしつこくて、なかなか去ろうとしない。「ガンコ虫は女を守ってるよ」と不思議なことを言う。ハサミのようなもので女を守る形をしているそうで、「イマドキの若い男に煎じて飲ませたい」んだそうだ。

窓の外では3人の警官たちが、紺色の制服に白いベルトをして腰を振って踊っている。「馬鹿みたい!」と母は笑う。隣のおじいさんは大工さんで、仕事部屋が廊下の奥にあるけれど、母の部屋のドアの隙間から、可笑しな表情で顔を覗かせている。母はそれが怖くって、夜中に扉を閉めて椅子を動かし、バリケードをつくって看護師に注意される。

「赤ちゃんが三輪車に乗ってる」「ほら、またあそこに人形をずらっと並べてる。怖いのよ、私、ああいうことされると…」「やだ! 女の生首なんか並べてる。怖いからイヤなのよ、ああいうことされるの」母はカーテンの下から覗く80センチほどの隙間から怖ろしい世界を見つめている。

大抵のことは聞き流し、不安がることについてはやはり、「そう見えるのね。でもほんとはいないから大丈夫だよ」って言うしかないじゃないかと思う。「そんなものいないわよ!」って言えば不快になるし、「ほんとだね」と言えば不安を煽ることになるし、見えるっていうことは信じるよ、だけどそれは症状のひとつだよ、薬が効いてくれば治るらしいよ、ほんとはいないから大丈夫だよ、そう伝えるしかないと思う。

それでも母は、自分の見えているものを「信じてる」とはっきり言う。廊下にズラッと並んでいるという提灯を、「見えるでしょ!?」と訊くので「私には見えないな」と答えると、「見えないのっ!?」と目を丸くする。

お母さん、私には見えないんだよ…。

昨日は私と姉が、傍の椅子に座っていたと言うし、今日は自分の妹と妹の孫が病室にやってきたと信じ、看護師に確認したという。

明日は脳のシンチグラム検査だ。母はまた、出かけることにあれこれと心配し、気を揉んでいる。

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