死を想う
2008/10/17
(この記事は2008年のものです)
昨日の午後、母の転院先となる小手指のほうの病院を訪れた。そちらのソーシャルワーカーと連絡を取り、詳しい説明を聞き、その後病棟内を案内してもらい、そのあと担当医となるドクターと話をした。
そこの病院の長期療養病棟についての方針、目指しているもの、それが患者と家族との考えと喰い違っていないか、そこをしっかりと突っ込まれた。
キビキビとした60歳近いかなという女性のドクターに「どういったことをこの病院に望まれていますか?」と訊かれた。
嚥下障害で食べられなくなった人が胃に穴を開ける簡単な手術をして、そこから栄養を流し込む、胃ろうという手段がある。今母が入院している病院の担当医は、胃ろうは「延命措置とは呼べない」と言う。
今の医学でごく簡単にでき、本人の負担も軽く、生きるのに必要なカロリーを補給するという方法が、悪いはずもない。実際そうやって普通に人生を謳歌できている人もいるらしいし、病気を抱えた小さな子供が一時的に胃ろうという方法をとっていることも珍しいケースではないようだ。
頭がはっきりしている患者が、食べられないというだけで死んでいくというのはつまり、餓死させるということを周りが選ぶということだ。
しかし転院する先のドクターはそれを「延命措置ですよ」と言い切る。「動物として本来、食べられなくなったらお終いじゃないですか?」と言う。
もちろん家族の意思と本人の意思によって決定すればよいことで、病院側はその意思に従うとも明言した。
むせてしまって飲み込めなくなるのは時間の問題。
いざそうなってからでは家族も動揺して、冷静な判断ができないという。今からその時に向けて、決断しておいてほしいと言い渡された。
病院側は、しっかりとした介護に自信を見せる。母は結局6週間も入浴できていないことを話すと、「少しくらい強引にでも、お風呂に入れちゃって構わないかしら?」とドクターは訊く。「そんな汚いの、私許せないわ」と笑う。
時間をかけて上体を起こし、可能な限り車椅子に移動させ、ベッド上だけじゃない世界に触れさせたいという意向で、母と向き合ってくれるという。そうできればいいと、私も願う。
もし母が転院したことで、何か少しでも新しい希望を見つけるなら、ナースやドクターや介護スタッフの方々とのふれあいで、ささやかな幸せを感じながら生きていると実感できるのなら、母がもう少し生きていたいと望むのなら、あるいは私達の眼にそう映るのなら、胃ろうをつくることを申し出ようと考えている。
そして逆に、これ以上頑張り続けることが気の毒でしかなかったり、母の中に何らの希望も見出せなくなった時は、一個の動物として、自然に任せるほうがいいのではないか、ゆっくりと命の灯が消えていくのを、見守るのがいいのではないか、そんなふうに、今は想っている。
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