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下りの螺旋階段

2008/12/6
(この記事は2008年のものです)


「『家に帰ったら…』って言葉がいつも喉まで出かかって、この頃それをぐっと呑み込むのよ」と、母が言う。「もう、帰れないんだって思って…」

母は現実を、受け入れようとしている。

自力で排便できない母は、毎日看護師さんにガス抜きしてもらっている。「上手い人と下手な人がいるのよ」
指の細さなんだかしなやかさなんだかちょっとした心配りなんだか、私は未体験だからわからないけれど、人によってテクニックに差があるようだ。

この頃食欲旺盛の母だから、それこそ毎日出さないと大変なことになりそう。毎日やってもらうからこそ、以前のようにお腹も張らずに食欲もわくのだろうと思う。

その幸せを母自身も実感しているので、「もうここを離れることはできない」と思わざるを得ないのだろう。

「宮川のうなぎを食べに、皆を連れて行ってやりたい」と、母は言う。築地が本店の宮川は、母が生まれ育った場所の近くだ。「そうねぇ。美味しいうなぎ、食べたいね」と曖昧な言葉を返すしか、私にはできない。

今日は風が強い。病室の天井の換気口から、ゴウゴウいう怖ろしいような風の音が流れこんでくる。母はその換気口をじっと眺めたまま、石のように固まっている。今日の母は、少し暗い。

「子供の成長は螺旋階段だ」という言葉を、幼稚園の園長先生から聞いた。真っ直ぐな階段を上るように成長するのではなく、上がったと思ったら下がったように見え、それでも全体的に見たら、ちゃあんと上に昇っていっているんだよ、という話だ。
だから子供がなかなか成長しないと焦ることはない。その子なりに、ちゃんと成長しているんだよ、ということだ。

母は螺旋階段を今、ゆっくりと下っているのだなと感じる。いいなと思うときと、ダメだなと思うとき、いったりきたりを繰り返し、ゆっくりゆっくりと、下っていくんだな。

無理に引きとめようとは思わない。ゆっくりと下っていくのを、私は傍で見ているよ。一生懸命、見ているよ。

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