絶好調
2008/11/07
(この記事は2008年のものです)
私は小手指からいつもより何本か早いバスに乗って、母の病室を訪れた。
母は目を丸くして、「当たった! アンタの靴音かと思ったら、当たった!」と言って喜ぶ。私が来るとわかっている日には、母はベッドサイドの時計を睨んで、1時を過ぎたあたりから、「今来るか今来るか」と待ち侘びているらしい。
「今までも、何度靴音に騙されてきたことか!?」って、そんなこと知りませんよ。だけどとにかく今日は、「あっちゃんの靴音」の予感は見事に的中したらしい。
母はこのところ、妙に明るい。食欲もやたら旺盛で、こちらが戸惑うほどだ。もしかしたらアルツハイマーも混ざってきたのかと、そんなことを考える。
私が持参した荷物を見て、「何持ってきたの?」と、子供のように無邪気に訊く。梅の香巻きおせんべの袋とミニ大福の袋を見せると、母は嬉しそうな顔をする。「おせんべ食べよう」と言う。昼食が済んだばかりだというのに。
この間は「二つに割ってね」と言ってた梅の香巻きを今日は、「割らないでね」と言って、一口に頬張る。
これが梅の香巻きを食べながら、私の携帯のカメラに向って見せた、母のOKサインである。口が不自然に閉じているのは、笑いをこらえているからだ。
何がOKなんだか知らないけれど、母の中ではいろんなことが今、なんとなくOKな状態なんだろう。素晴らしいことだと思う。
もう一度カメラを向けると、今度はおどけて舌先をペロッと出して見せる。昔々、私が子供だった頃の、ひょうきんな母のようだと思う。
母は暖かい時間に外に車椅子で散歩に連れ出してもらうことに憧れているし、クリスマスに病院の一階ホールで行われる、コーラスのイベントを観に行くことも楽しみにしている。
「あのカーディガン持ってきて。水色に白の模様の入った、花の刺繍のあるやつ。アンサンブルなんだけど、カーディガンのほうだけでいいから。あれは温かいのよ」などと、自分に似合うお気に入りの服を持ってくるよう要求する。
ベッドサイドの箪笥の引き出しの中には、すでに私がかつて持ってきた(母ご指定の)白のガウンとピンクのカーディガンが入っているけれど。
病院の枕が合わないといって、今までに2回、私が枕を持って行き(ひとつはデカすぎて間もなく却下、ふたつめはベッドにエアマットを敷いたら高くなってしまって却下)、病院の布団が重いからといって、私が薄手の羽根布団を持って行き、置時計が見づらいからといって、もっと大きな置時計を今日、母のご指定どおり西友で購入して持って行った。
我儘は相変わらず。そして至れり尽くせりの環境の下、母なりの限界の中で今、充分幸福なのではないかと思う。そう思いたい。
「ちょっと足を見てごらん」と母が言うので、布団をめくってみる。今日はアロマオイルでのリフレクソロジーのボランティアの方が見えたそうだ。「気持ちよかったわ~。オイルをたっぷり塗りましょうって、やってくれた」
母は満足げだ。この間までカサカサだった母の足の甲が、艶やかに光っていた。
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