見出し画像

手強し、恐るべし、レビー小体病

2011/1/12

昨日の母はずーっと喋っていて、その蟻の溜息ほどの小さな声を必死に聞きとろうと私は、耳に細くて深~い穴を通す。

母は向かいのベッドの女性が気に入らなくて仕方ない。毎日優しいご主人が夕食の介助に見えて、それから昼間も結構頻繁に、いろんなお友だちがお見舞いに見えるのだ。メッセージ入りの色紙やら、お花やら絵手紙やらがベッドサイドにいつも飾られている。

「嘘つきなのよ!」と、母は向かいの女性を非難する。入浴した当日に、ご主人に向かって「しばらくお風呂に入れてもらってない」と言うのだそうだ。夫を騙している、そして妻の言葉を信じて病院側に事実を確認する夫の顔に泥を塗っていると、母は女性の人格を否定する。

「それはね、嘘ついてるんじゃなくって、呆けてるのよ」と、私は笑いながら小声で囁いて、ある部分では全く呆けていない母を優位に立たせてあげようとするのだけれど、どうも母は納得がいかない。

見舞客が1時間も話し続けてうるさいのだと、母は顔を歪める。食堂で自分が会釈をしても、その女性は顔をそむけるのだと、母は主張する。

ベッドサイドの引き出しの中に、知らないおじさんから貸してもらったナースコールが入っているのだと、母は言い張る。「ナースコールはここにあるわよ」と私が言うと、「これはプラスチックでしょ、もっといい、木でできたヤツよ」

そして母はおじさんの家に呼ばれて遊びに行ったのだが、それがどこだったのか、おじさんが誰なのか、想い出せないそうだ。「知らない人の家に行くわけないわね」と母は呟き、「いらっしゃい、よく来たね、って言われたのよ」と、結構なリアリティをもって語る。「おじさんに、ありがとうって返さなくちゃ」と、必死の顔で私を見つめる。

「ここはネズミがいっぱいいるでしょ。イヤだ…」と、母は宙を見つめながら顔をしかめる。最近また、幻視が母のヒマつぶしになっている。

「天狗みたいな鼻してるわ」と、母は可笑しそうに顔を歪める。「テングネズミ?」と適当に名付けて私が訊くと、微妙な反応をする。テングネズミなんかじゃなくって、「天狗みたいな鼻をしたネズミ」らしい。

母の腕は、骨そのもの以外の何ものでもなくって、これ以上痩せられるのかというほどに痩せ細った身体をしている。それなのに、私が持っていったアンコの和菓子をぺろりとたいらげ、大きな丸いお煎餅を1枚ガリガリ食べて、さらに小さなあられ煎餅とミスズ飴とかいう、硬いゼリーみたいやつを2個、むしゃむしゃと食べる。

「ハム、ハムよ! 脂っこいものが食べたい」そう言った次の瞬間、素晴らしいことを思いついたように目を輝かせて、「ソーセージ!」と母は言う。

「ソーセージを2本、さっと湯がいて…!」と、頭の中でソーセージを泳がせる母。「さっと湯がいて持ってきたって、冷めちゃってるわよ」と私が言うと、「いいのよ!」と、きっぱりと返す母。

呑み込みがやたらに悪い日もあれば、こんなふうに何でも軽々ゴックンの日もある。ほとんどどこかへいっちゃってる時もあれば、こんなふうに妄想や幻視とともにやたらと覚醒している時もある。

手強し、母。
恐るべし、レビー小体病。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?