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鼠と猫とナースコール

2009/1/18
(この記事は2009年のものです)


母はほぼ一日中、幻覚を見ているようだ。私がベッドサイドにいるときでも、目はじっと遠くの壁や天井を見つめていて、ネズミの行方を気にしている。

「白いハツカネズミよ。ハムスターもいるわ」母いわく、向かいのベッドのお婆さんの顔にベッタリと、白いネズミが張り付いてしまうのだという。
「ナースコールしようかと思ったけど、どうせまた頭がおかしいって思われるだけだから、我慢して布団かぶって寝たの」

ネズミは主に天井から這い出てくる。「そこの穴から出てくるのよ」
母は自分がいくら訴えても、「そんなものはいない」と頭から否定して
とりあおうとしない病院側の姿勢に疑問を抱く。

「ほら!見えるでしょ!? ネズミがズラッと並んで、下半身を出してる」「ネズミの下半身ってどこからのことよ?」と訊くと、「オッパイから下よ」と、母はきっぱり答える。

今日は私が病室に行くなり、「猫よ! 白い猫がいるわ。尻尾の長い…」母の目は真剣で、傍で動物が動いている様を目で追っているのがよくわかる。誰がどう否定しようが、本当に母の目には鼠と猫が動き回っているのだ。そのリアリティったら、本人しか分かり得ないことだ。

母は夜中に幾度も、ナースコールをすることがあるらしい。自分の好きなスタッフと話すことを目的にナースコールをして、別のスタッフが「どうしました?」と訊きにやってくると、「どうしてあなたに、プライベートなことを話さなくちゃいけないの?」などとあしらったりするようである。とんでもない話だ。

ナースコールはしっかりと、ベッドサイドのバーにひと結びして括りつけてある。私が帰るときには、ナースコールの在り処を確認する。「ナースコール」という言葉が、時にいろんなふうに変化する。

この間姉が行ったときには、「親の紐よ、親の紐! 親の紐と子の紐!」と、ワケのわからないことを言ったそうな。そして一昨日私には「アレはどこ? ナイスゴール!」と言うので、「ナイスゴールゥ~?」と笑って訊き返した。

ベッドサイドにかかっている、針金で作ったハンガーにスーパーの袋をひっかけた簡易ゴミ箱のことかと思い訊いてみると、「違うわよ、ナイスゴール!」と母はイラつく。

ハッと気づき、「ナースコールね?」と、私は大笑いしてしまった。「親の紐?」と重ねて訊くと、「そうよ! 親の紐」と言いながら、ナースコールのコードを手で撫でて確認している。

なんだかよくわからないけれど、母の中ではきちんと筋が通っているに違いない。

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