誰かのためになら、大胆になれてしまういきもの
生殖記/朝田リョウを少し前に読了した。ヒトを「変な生き物」と捉えて進めていく読み口は新鮮で、でもやはり彼らしい、素敵な終わり方の作品だった。なんとなく題名で食わず嫌いというほどでもないにせよ、すぐには手が伸びなかったのが悔やまれる。
余談だが、最近読んだ本はというと、
告白撃/住野よる
月と散文/又吉直樹
やめるときも、すこやかなるときも/窪美澄
方舟/夕木春央
バリ山行/松永K三蔵
風の歌を聴け/村上春樹
代替伴侶/白石一文
このあたり。告白撃は久しぶりに『君の膵臓をたべたい』の爽快感あるラブ・ストーリーだ!!大好物だ!となったし、又吉エッセイは相変わらずというか、いつだって格が違うほど吹き出しそうになるし──文章だけで笑ってしまうのは、彼と有川作品、そして我らが森見作品ばかりだ──あ~『方舟』は傑作だった。たいへん気持ちが悪くて素晴らしかった。『ルビンの壺が割れた』と同じくらい。やだやだ。元来推理モノもクローズドサークルも、ミステリも苦手だ。でも『屠人荘の殺人』くらいコメディ要素が入ってくれると楽しんで読めるし(まあこの作品は佐藤健と神木隆之介みたさに映画から入ったのだけれど・・そうそう、神木くんといえば、最近日曜劇場でやっている「海が眠るダイヤモンド」の主演に僕が似ていると職場の淑女様方からは好評である。小躍りしながらそれを伝えれば「全然似てないけどな~、いや~ジョージ(おさるのジョージ。黄色い帽子のおじさんが隣にいる)の方が似てるよ~」とのことである。そうですか・・)しまった、話が脱線した。そのあたりの映画作品だと、阿部サダヲ主演の「死刑にいたる病」これはめちゃくちゃ面白かった。面白すぎたので、その後『死に至る病』セーレンキルケゴールを調べたりもした。これほど話せるなら、そこそこ好きなのかも。
まあ、それはいいとして。
ちょっと前、
最寄りのスーパーの休憩スペースで椅子に腰かけて調べ物をしていた時。40代くらいの女性に声を掛けられた。「あの、そこで軽食を取りたいんですが。」「え、あ、どうぞ」
別に僕が椅子を使いたかったわけでもないし、スーパーの買い物帰りとはいえ長居はマナー違反というものだろう。少し戸惑ったにせよ、どうぞ、と電車の席を譲るがごとく譲った。ただ少し、ほんの少しだけ、なんとなく違和感を覚えた。取るに足りないといえばそうだし、こんなことを考えるなんて人生損しているような気がしないでもないが、他にも席はたくさんあったし、僕が席にいたのもほんの1分前からくらいだ。わざわざ、僕に声をかけるだろうか。それも、かなり主張は強めというか。語気には出していないにしても、そこには「絶対に譲らない」という意思があるように思えた。
もし逆の立場だったとして、いくらそこの席で軽食を取りたいからとはいえ僕なら声はかけない。たぶん、黙ってほかの席を使う。彼がスーパーの買い物帰りであり、休憩スペースはみんなのものであるし、その権利は平等で、面倒なことになる可能性もゼロではない。
そんなことに、意地が悪くも思い巡らせたあと、気付いた。
彼女は一人ではなく、ご高齢の女性と一緒だった。
彼女がお母様と一緒にお買い物をしに来たのか、それともケアワーカーであるかは定かではないが、きっと「その女性」が僕の使っていた席を使いたい、と言ったのであろう。
小さいころ、従姉の家族が引越しをした。
マンションから一戸建てに引っ越したのだ。新築のおうちはとても綺麗で魅力的に映った。
従姉とは年が近いこともあり、正月、盆など季節のイベントではよく泊まりに行かせてもらっていた。
確か僕に直接言ったわけではなかったように思うのだが、僕の家族とあちらの家族でお昼ご飯を食べていた時、従姉の母親・僕にとっての伯母が「かずくん(僕の小さいときのあだな)らが泊まりに来てくれるには前のとこはちょっと狭いと思ってね」と言っていた。
こちらには、幼いながらに強烈な違和感があった。
大前提として、たぶん伯母は冗談半分で言ったんだと思う。
引越しなんて、それもお家を建てるなんて、もの凄い決断だ。お買い物としても一世一代だろうし、環境だってガラッと変わる。そんな大きな、大胆なことを、冗談だとしても「従兄弟が泊まりに来るから」と理由づけできるものなのか。
そんな風に思っていた。
でも、今ふと思う。
たぶん、逆だ。
僕らが泊まるときに手狭、なんてのはただのきっかけに過ぎなくて。
きっと、前から。時系列はわからないにせよ、きっと「引っ越したい」とか「一戸建てに住んでみない?」とか、そういう気持ちも、会話も、あったと思うのだ。
人は自分の欲を簡単に知覚できないと、どこかで読んだことがある。
だからこそ売り手は「潜在的な欲求を引き出すことが、第一の目標である」と、ビジネススクールでは学んだ。
でも、きっとその欲求をそのまま自身のものとして言い出すには、この世界はあまりに目立ちすぎる。世界などと言ったが、もしかすると日本特有なのかも。
だから「○○(誰か)のために」という枕詞を、つけたがる。
「○○のためなら、仕方ないか」と、みんなに、いや何より自分自身に言い聞かせるために。
だから、人のためなら大胆になる。
でも、本当は、きっとそれは自分のためなんだよな。
などと、さっき買った中古の小さなヒーターの前で、ぬくぬくとこの文章を書いている。
たぶん自分一人なら、この買い物はしなかった。
厚着をすればいいだとか、湯を飲めばいいだとか、布団に入ればいいだとか、そんな買わない理由ばかりを探して。
大切な人のためになら、いともたやすく、いつもより少し大胆な決断ができてしまう。
でも、すごく満足しているし、買ってよかった。
きっと彼女は、これがなかったら部屋が寒いと言い出すだろうから。