老害について

5月の連休中、いろんな事情が重なってほぼ出かけず家にいたのだが、その時に引退した元放送作家の鈴木おさむに関するコンテンツに触れる機会が多かった。YouTubeでたまたま1つのコンテンツに触れたら、以降引退に際してのインタビュー企画が次々と再生されていき、結局それらをほぼ網羅した。

※多分これを見てから↓ReHacQはミドルエイジに効く

で、そういえば引退に際していろんな本を出していたな、と本も全部読んだ。3冊ぐらいだったし、文体も放送作家だからなのか(?)平易で読みやすいし、都合1日で読み切った。読んでみての感想は、それぞれのインタビューをつなぎ合わせていくとこの本に書いてある内容は網羅されてしまう、ということ。それぞれの注釈や枝葉の話を踏まえるとインタビューのほうが読み応え(聞きごたえ)はあるかもしれない。

その中で個人的には引っかかったというか、気になったのが老害について。
鈴木おさむの老害についての考え方は個人的には新鮮さを覚えたし、ずっとぼんやりと抱えていた人間に対しての言語化がされた様な印象を持った。

何をもって言語化されたかというと、いわゆる一般的な老害と呼ばれるイメージを持つ人はともかくとして、個人的には中途半端に若者に寄り添う(=同年代の老害に繋がる動きをやんわりと否定し、自分はそうじゃないと違う枠に置く)動きをする人間に対して妙な違和感を感じていた。仕事をしていく中でもいたし、どちらかというと趣味の世界においてそういう人間を多く見てきたような気がするし、見るたびに「お前こそが老害なんだけどな」とぼんやり感じていた節がある。

鈴木おさむが細かく何を言っていたのかはそれぞれのコンテンツでそれなりにどれでも言及しているので見てもらうとわかりやすいが、個人的な解釈も踏まえた形で表現するなら「中途半端に好かれようとすること自体が老害」という感じか。本人の発言的には「しっかりと自分を通して嫌われようと思った」という言葉が続いていくが、この中途半端さこそが個人的には嫌われきる老害よりもタチが悪い。自分は弁えていて、他の同年代とは違って理解があるという、少し穿った見方をすれば同年代の他者へのマウントと、厭らしい下心を薄っすらと感じる。こういう動きを目の当たりにしている時に頭に浮かぶ漫画の一コマがあるのだが、絵面だけ浮かんできて一体何なのか、そもそも実在するのかすらわからない。おっさんがウィンクして咥え煙草でサムアップしてるとかそんな感じのうすら寒さを感じる画だったような。これももしかしたらイメージでしかないのかもしれない。

そういう人間は何故か人生訓というか、格言を語りたがる傾向が強いのも不思議なもので「自分の機嫌は自分で取る」という言葉が標語なのかと思うぐらい、異口同音にこの言葉を発する。要は自分に矢印を向ける自責の思考とスタンスを持てということなんだろうけど、言われて持てるものでもないと思っている。これがタチが悪いのは「#なんか見た」というハッシュタグでエアリプを撃ち込んでいる点。ここにも嫌われたくないけど、一言言わずに居られないという衝動を抑えきれない点が滲み出ていて、この人種特有の歪さを感じずにいられない。

そんな動きを見てなぜ違和感や嫌悪感を感じるかというと、自分が逆の立場(若者だったころ)に同じ動きをされて感じた嫌悪感を思い出したから、というのが大きい。当時はめちゃくちゃ耳が痛かった言葉の方が今となっては活きてることが多いし、中途半端な寄り添い方をしてきた人や言葉は思い返せばあまり前向きな印象は残っていない。これもその当時は絶対に理解できなかったことだと思う。何故なら絶対的な経験値が不足しているから。だから直接的にその場で何かを変えるということは多分世代を超えると非常に難しいのだと思う。簡単に言い換えれば世代が離れると分かり合えないというか。

ここから少し話が飛躍して、嫌われることを厭わずに指摘したり、自分の考えを通していくということに関しては青木真也が格闘代理戦争の弟子に対しての行動に際してそれっぽいことを指摘していて、これはこれで参考になった。言いたいことを言って貫く、故に敵も多い青木真也ならではというか、これぐらい一貫した姿勢を作り上げてきた時代背景も含め、自身が老害という意識はないだろうが、潔さという意味では青木真也の姿勢は同年代(と、いつまでたっても思えないのだが)として学ぶ点は多い。

こういう他世代との接触は普通の社会生活を送っていれば絶対に避けることはできない。できる対策はその接触を最小化することしかない。しかしそうもいかないのが社会というものであり、一般的なサラリーマンであればそれは半ば業務放棄に近い状態に陥ってしまうことになる。じゃあどうすればいいのかといえばもうシンプルで、求められるまで返さない、そうすれば単純に接点は最小化される。需要がないと認識してるなら、需要を増やさなければ良いという話で、その求められたい気持ちが中途半端に滲み出てくる理解を示すのが気持ち悪い。という結論に至ったのが最近のこと。

自分自身の加齢を意識する瞬間というのは実は意外に少ないし、そこにはかなり鈍感であるということを自覚した。特に環境の変化がなければその感度は大幅に鈍る。結婚というものがおそらく環境変化においては一番大きいと思うが、独身のままだとその環境変化がなく、日常が20代のころから大きな枠でとらえたときに地続きになっているので自分が気付かない間におっさん化していること気づくことが非常に難しい。周囲が結婚していたとしても自分の環境自体に変化は大きくない。日常が20代から地続き故に若いと言い換えられるかもしれないが、加齢による経験値の蓄積は、経験値が少ない(言い換えれば様々なことがまだ吸収しやすい)若者との差は自分が想像している以上に大きく、深い。

若者に交じって受け入れられていると認識されている人間は、それは若者に気を使わせてるという事実は、自分が若者であったころ、めんどくさいおっさんが自分のコミュニティなり集まりに居座り続けていた時に鬱陶しかったことを思い出すとわかりやすいだろう。居座る人間はこの記憶が都合良く自分の中から消え去っていることが多い。こうなるともう救いの手はほぼない。

そういうことを思い出して、書いては消して、を繰り返して今になった。
今後もより拗れた道をまい進していく。

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