2020年2月 対馬の寺社

画像1 神々の島とも言われる対馬の一の宮、海神神社。対馬全体の中央部西岸、小さな漁村の外れにあり、長い石段を登りに登ると、この立派な社殿が突然現れて驚かされる。8年前、麓の宝物庫から韓国人窃盗団により仏像が盗まれて大騒ぎになった神社でもある。
画像2 対馬の下島の南端、豆酘の集落内、小川べりにひっそりと鎮座する雷神社。旧暦1月3日にサンゾーロー祭が行われ、亀卜が行われ、その年の対馬の1年が占われる。
画像3 今年の旧暦1月3日は、先月、1月27日。狭い境内にはその時の名残り、火を燃やした跡と御幣が残されていた。新聞記事によれば、占いの結果は、豆酘は安泰の「安」。対馬全体は水産業不漁、経済並、農業上々、天災有、だったとか。
画像4 本当に小さなお社が一番奥に祀られている。亀卜の行われた旧暦1月3日の神事に参列したのは地元地区の人10名だったと長崎新聞社は報じている。
画像5 このような場所に、豆酘の雷神社は祀られている。川べりの道路も車が1台やっと通れるほどの巾しかなく、向かいの民家の方に許しを得て、空き地に駐車させてもらった。
画像6 豆酘の雷神社からほど近く、赤米神田がある。国指定無形民俗文化財、豆酘の赤米神事の主役。今では1軒のみ1000年以上にわたる伝統行事を守り伝えている。訪れたちょうどその日の深夜、最も重要な神事、頭受け神事が行われたことを、帰宅後知った。
画像7 下島の中心、厳原の町の西外れ、万松院の境内に梅の古木が大きく枝を張り、白い花をたくさん付けていた。
画像8 万松院の本堂。万松院は対馬藩主2代目宗義成が初代藩主の供養のため、元和元年(1615)建立した。
画像9 万松院本堂の片隅に、朝鮮国王より寄贈されたとある三具足(みつぐそく)が展示されている。初代藩主はそれまで友好関係にあった朝鮮へ秀吉が攻め込む際の先導役を命じられ、その後、家康からは関係修復を命じられるという苦労を強いられた。代替わりした際に贈られた宝のありがたみはいかほどだったか。
画像10 万松院の奥には宗家代々の墓所がある。両側に灯籠が並ぶ長い階段が墓所へと導いてくれる。
画像11 百雁木と呼ばれる自然石を積み上げた石段は132段。両脇にかつては樹齢数百年の大杉が何本も聳えていたというが、今では最上部の墓所付近に3本が残るのみとなった。樹齢は1200年と伝わる。
画像12 宗家墓所は国指定史跡。最上段部は、上御霊屋(かみおたまや)と呼ばれ、宗家19代対馬藩初代藩主善智以来14人の藩主の墓がまつられている。
画像13 右端の小ぶりな墓が19代善智の墓、一番左の大きな墓は20代義成のもの。
画像14 万松院境内に、諫鼓(かんこ)の碑が立つ。領主に対し諫言しようとする民が打ち鳴らすために設けた鼓という。「諫鼓鳥」とは諫鼓の上に鳥が遊ぶほど、民の苦情が出ない善政を意味するといい、祭りの山車に諫鼓鳥と鳳凰が飾られる。
画像15 和多都美神社の一の鳥居と二の鳥居。潮が満ちてくると海の中に立つ。
画像16 三本柱の鳥居の下には磯良恵美須という鱗状の亀裂の岩石が祀られている。今時はパワースポットとして人気なのだそうな。
画像17 和多都美神社境内には相撲の土俵があった。古式大祭には奉納相撲も行われるという。
画像18 和多都美神社、4の鳥居から海の方を見ると、海の中の1と2の鳥居まで一直線。ここから左手に向かって道路を上っていくと、烏帽子岳展望台に出る。
画像19 和多都美神社境内の一角には和船が置かれていた。祭祀の際に使われるのだろうか。
画像20 海神神社、これが最後の石段。ここまで登るだけでも相当ばてる。鳥居の扁額には海神神社の海の字が、「毎」の下に「水」と置いて1文字としていた。
画像21 海神神社の実に立派な拝殿。さすが対馬の一の宮と思わせる風格が漂っていた。拝殿は西の方、すなわち海に向かって立っている。
画像22 海神神社境内には、かつてここで奉納舞などが演じられていたと思しき舞台や、階段状の観客席の痕跡がかろうじて残っていた。
画像23 国の重文や県指定文化財などが海神神社境内入り口の峰町ふるさと宝物館に収蔵されている。残念ながら事前にお願いしておかないと見学はさせてもらえなかった。
画像24 下島西部の小茂田の北、阿連集落に伝教大師最澄が唐から帰国した時に上陸した地との顕彰碑が立っている。825年のこと。
画像25 伝教大師の碑のすぐ奥に、雷命神社がある。5重の鳥居の前、狛犬の前になぜか古い砲弾が置かれていた。
画像26 雷命は水神の男神。雷命が出雲へ出かけて留守の間は、山の奥からオヒデリ様(太陽神)という女神が里に下りてきて村を守ると伝わり、今もそのお迎えと送りを厳粛な神事で行っている。水神と太陽神が豊穣をもたらす神話の世界が伝承されている。
画像27 雷命神社のすぐ近くに注連縄で囲われた磐座のような場所が見えた。周囲はフェンスで囲われ立ち入れなかったが、聖なる場所であることは間違いないようだった。
画像28 小茂田濱神社。元寇、文永の役で元・高麗軍が襲来した際、わずか80騎余で応戦し戦死した宗資国とその部下を祀るために創建された。
画像29 小茂田濱神社にも錆びた砲弾が置かれていた。
画像30 小茂田で泊まった民泊の宿の近くを散歩していたら、小さな社があった。恵比寿宮。対馬には本当に神社が多い。小さな集落にも3つ4つと神社があり、まだ正月から間もないためもあろうが、真新しい注連飾りが目立つ社が多かった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?