見出し画像

アナログで記録する意義 ~【櫻坂46】「五月雨よ」MVの撮影方法をみて~

3月10日に公開された「五月雨よ」のMVは、無事に再生回数100万回を超えた。
堀田英仁監督による独特な映像表現は、観る人によって好みが分かれるようだが、それはある意味、芸術のあり方として正解であるような気がする。
どのような芸術であれ、大衆を意識して作られたものである限りは、最大公約数的な訴求力をもって、表現される場合も少なからずあるだろう。
それは、万人がある程度良いと感じる「80点~90点」のものを作るという姿勢である。

大自然を見渡した時、どんなに毒性や感染力が強いものであっても、全ての人に感染して発症してしまうウィルスは存在しない。あのエボラ出血熱でさえ、致死率90%程度に留まり、感染した100人のうち、数人は助かるらしい。
それと同じように、芸術に関する評価に関しても、全ての人が感動するようなものは存在しないのかもしれない。

物事に対する感性は、人それぞれである。
知り合いに、パンダが可愛いとは思わないと言う人がいる。
彼女にとっては、あの白と黒の配色から、頭蓋骨を連想してしまうようで、どうしても好きになれないらしい。
造物主たる神なる手腕で作られたはずの動物や、風光明媚な景色ですら、それを好きと言う人と、全く琴線に触れない人が存在する。
ましてや、人が創り出したものが、万人に感動を与えるものとなることなど、あり得ないと考えた方がよいだろう。

そのような前提に立ったとき、万人にとって90点のものを目指すより、一部のコアな人たちに、200点や1000点となるものを目指す方が、アーティストとして正しい姿勢であるように感じる。
それは、ある程度の採算性が求められる「商業ベース」のものであっても変わらないのではないだろうか。
誰も良いと思わないものは論外なのだが、響く人には、もの凄く共感されるものを作り続けていく姿勢こそが、アーティストが目指すべきものであるような気がする。

アーティストが、商業的な要素を考慮する時、ターゲットを絞り込むことは必要だろう。
欅坂46が、爆発的に受け入れられたのは、誰もが持っている「大人になりきれない自分」という部分に、深く刺さったことが成功の鍵であったように感じる。
これは、総合プロデューサーであり、作詞家でもある秋元さんがよく口にする「厨二病」の部分と言い換えることができるだろう。
彼曰く、それは、一期生オーディションの時にみられた彼女たちの様子が、着想の原点となったようだが、彼女たちのキャラクターと相俟って、かなりの説得力をもっていたことは確かである。
これは、10代の若者たちだけをターゲットにしているわけではない。
それ以外の世代の人たちにも、必ず共感できる部分があるため、広い世代に訴える力があるだろう。
なぜなら、どのような世代の人たちも、10代の頃を経験しているからだ。
秋元さんが、若いアーティストたちに作詞をする時、いつも、この部分を発動させることで、創作することが可能になると言っている。
これは、よくあるマーケティングの世代分析などを超越した、人の心の中にある、ある意味普遍的な「一つの人格」と言ってもよいかもしれない。
それ故、自分も含め、アイドルに全く興味が無かった人たちが、欅坂46の楽曲やパフォーマンスに共鳴し、その沼にどっぷりと浸かってしまうことになるのだ。

残念ながら、欅坂46がターゲットにしていた誰の中にもある「厨二病」の要素を刺激する楽曲は、櫻坂46となってからは、表面上、すっかり影を潜めてしまったように見える。
それでも、櫻坂46や日向坂46の根底に流れている、若い世代特有の「情熱」や「熱量」のようなものは、まだしっかりと残っていることがわかる。
ただ、すぐには分からないような心の奥底にあるため、彼女たちの成長と共に、表面を見ただけでは伝わりにくくなっているだけなのかもしれない。

「五月雨よ」のMVが、全編16㎜フィルムで撮影された意義は大きい。
フィルム独特のざらつき感が、一定の世代には、一種のノスタルジックなものとして映り、フィルムに慣れていない若い世代には、新しい表現として受け止められている。
少し前、レンズ付きフィルムが、再びブームになっていたのも、誰のスマホにもカメラが付き、すぐに撮影できる環境があるからこそ、現像しなければ結果が分からない一昔前の手法が、新鮮に感じたからだろう。
二期生メンバーの中で、フィルムカメラが流行っているのも、同様の理由であるようだ。

しかし、フィルムで撮影されることには、それ以上に、そこにある空間を「全て閉じ込めることができる」という意味がある。
これは、アナログ技術ゆえの効果と言えるだろう。
デジタルに収録されたものは、その撮影当時の技術以上には、情報を収めることができない。そこには、必ず、拾い上げられない情報が存在し、撮影という過程の中で捨てられてしまう。
それに比べて、フィルムのようなアナログ技術で収録されたものには、そこにある全ての情報が収められることになる。デジタル処理の「0」と「1」の間にあるものも、そのまま記録されるからだ。
オーディオに詳しい人たちの間では、もう常識なのだが、レコードやテープといったアナログのメディアは、再生する機器を高精度なものに変更するだけで、どんどん今まで認識できなかったものが鑑賞できるようになる。
ところが、CDやDVDなどになってしまったものは、もうそれ以上、どんなに良い機器にしたとしても、アナログのような発見はない。

「ゴルゴ13」の中にも、このアナログが持つ「記録される情報の膨大さ」を題材にした話がある。(「ゴルゴ13」127巻・第374話 シャッター)
アマチュアカメラマンが撮影した写真に、ゴルゴ13が銃を構えている様子が写っていたことから、話が複雑に展開していくのだが、この話では、通常の現像という手段では確認できないような情報が、ネガを高精細にスキャニングしたデータを使うと確認できるということが紹介されている。
つまり、アナログに撮影されたものは、その中にある情報を呼び出す方法さえ調えれば、呼び出すことができるものであることを示している。
最近、古い映画が4K画像で蘇るのをよく目にするのだが、それも、フィルムで撮影されているからこそ、可能なことである。

今回のMVが、16㎜フィルムで撮影されたのは、単なる「画質の目新しさ」や「温もり」だけが目的ではないように感じている。
何年、何十年と歳月を経た時、彼女たちの煌めきを復活させるための「貴重な記録」としての意義の方が大きいように思えるからだ。

彼女たちの存在が、本当に懐かしいと思えるような少し遠い未来に、この映像が観たくなってしまう自分がいることだけは間違いないだろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?