見出し画像

自分は何が好きだったのか? ~【櫻坂46】理佐さんのSHOWROOMを観ていて~

理佐さんの卒業メモリアルブックの告知として、メンバーとのSHOWROOM配信が行われている。
メモリアルブックを出すことになり、Web記事として掲載されているインタビューを読んでいる時、いつも違和感を覚える言葉がある。
それは、理佐さんの「アイドルとして最後の姿を・・・」という発言である。
この言葉を聞く度に、「自分が好きだったのは、アイドルとしての理佐さんだったのか?」という疑問が湧いてくる。
この疑問について、いろいろと思いをめぐらせながら、欅坂46時代からのMVやライブを観ていて感じたことは、好きだったのは「アイドルとしての」彼女たちではなく、「欅坂46や櫻坂46としての」彼女たちであるということだった。
つまりは、ロックやJ-POPといった特定のジャンルの音楽だから好きということではなく、「欅坂46」や「櫻坂46」だから好きということである。
これは、もう他のものに置き換えることが出来ない存在としての「欅坂46」や「櫻坂46」が好きであるという意味である。

このことが確信できただけでも、理佐さんの発言は自分にとって、重要なものであった。
理佐さんは、卒業を前にして、まるで自分に言い聞かせるように「アイドル」という言葉を使っているのだが、実のところ、本人が一番そう思っていないのだろう。
彼女の言葉からは、心の奥底にある「自分はアイドルではない」という本心の方がより伝わってくる。
グループやメンバーに対する愛が強く、常に音楽番組や握手会などのイベントに出席し続けることで、応援してくれているファンに感謝の気持ちを表し続けている「模範的で優等生的なアイドル」である理佐さんが、本当のところ、「自分はアイドルに向いていない」と思い続けているというのが、実に「欅坂46」のメンバーらしい点と言えるのかもしれない。
「アイドルは向いていない」と感じているからと言って、決して「自分はアーティストである」と思っているわけでもないのだろう。
結局、理佐さん自身も、他の何ものでもない「欅坂46」や「櫻坂46」で在り続けることだけに注力しながら活動していたことは、紛れもない事実である。
そのため、卒業することになって、改めて自分がやってきたことを人に伝える時、わかりやすく「アイドル」という表現を使っているのではないだろうか。
欅坂46時代からの理佐さんのブログなどを読んでいても、初期のころは、その頃すでに確立していた「アイドルの作法」に則った発言をすることが多かったのだが、「不協和音」の頃からは、そのような見方から離れ、「欅坂46」独自の世界を打ち出すようになっていった。
メンバー全員が、全ての表題曲に参加する「21人の絆」が基本となったこともあり、パフォーマンスに集中し、そのクオリティーを上げることだけを考えればよい環境が整ったのだ。
これこそが、欅坂46のパフォーマンスから感じる異質さの原点と言えるだろう。
その異質さは、「KEYAKIイズム」として、今の櫻坂46の根源的な部分に、脈々と流れている。
二期生が加入し人数が増えたことで、全員が表題曲に参加することは出来なくなってしまったが、シングルごとに3人のセンターを用意して、全員がオリジナルメンバーとなる機会が与えられている。
この良き伝統は、グループが存続する限り、今後も続いていくだろう。
「櫻坂46」が活動を続けている間は、自分も、彼女たちのファンであり続けることは確かである。
そして、それこそが、理佐さんや原田さんが一番望んでいることなのかもしれない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?