信越本線と66.7‰
「66.7」という数字を見て、特定のジャンルの人間が必ず連想するのが信越本線の横川と軽井沢の間の碓氷峠。この区間の旧信越本線は「66.7‰」という日本のJR線の最急勾配の区間を有し、66.7‰は21世紀においても日本の鉄道の限界※を超えている伝説的数字。伝説とした通りこの区間はすでに廃線となっていて鉄道で通ることはできない。
その代わり、現在の群馬側終点の横川駅から軽井沢方面の途中にあった熊ノ平信号場まで約3.3km区間は線路跡が遊歩道のアプトの道として整備されていて、途中には重要文化財にも登録されているシンボル的の碓氷第三橋梁、通称めがね橋などそんな伝説の軌跡を、歴史遺産として親しむことができるようになっている。
アプトの道のアプトとは、一般的な2本の線路の間に歯車を噛ませるラックレールをつけることで急勾配でも滑らずに走れるようにした「アプト式」という鉄道様式の一つ。スイス人のアプト氏によって考案されたもので、日本では横川-軽井沢区間ではすでに廃線、現在は大井川鉄道だけで利用されている。本家スイスなどでは現役バリバリ登山列車で活用されている。
横川駅の標高は386m、軽井沢駅の標高は約939m、その標高差約553mを結果的に11.2kmで上ることになり、単純計算で平均49‰、最大66.7‰という数字が誕生。現代のJR線ですら25‰を越えると急勾配で騒ぎたてるレベルなのに、当時の技術では遠回りで長大トンネルを作ることはコストに見合わず、中山道に沿ったほぼ最短ルートを鉄道が「登る」ことをになった。それを解決するため1885年実用化ほやほやのアプト式を導入することとし、1893年、初めて横川と軽井沢の間の鉄道が開通した。
当初は蒸気機関車に歯車をつけたもので運行されていたが、スピードが遅く高出力でトンネルが多いため煤煙による健康被害が問題視された。それを解決するため、山の中の横川駅に発電所を導入し、1912年に当時の国鉄幹線で初めて電化することとなる。
時代は下り高度経済成長期にはいると、アプト式はスピードがネックとなった。そこで半世紀で蓄積された鉄道技術を活用し、アプト式から普通鉄道として新線が建設され1963年に「新・旧信越本線」が開通。そして今度は高馬力の補助機関車で押す方式が導入され、特急列車なども必ず横川駅に停車し、後ろに機関車を増結するようになる。余談だけど、その停車時間に商機を見出したのが駅弁「峠の釜めし」。
そして1997年、翌年の長野オリンピック開催にあわせ長野新幹線(北陸新幹線の長野までの区間)が開業。それにより東京と長野・北陸を結ぶ特急は横川-軽井沢間を通らなくなり、この峠越え路線を維持する意義が失われてしまい廃線となってしまった。新幹線は大きく迂回するトンネルを通して2倍の距離でこの峠を越えているが、それでも30‰は大概の急勾配。そのため北陸新幹線用の新幹線車両は、坂を登る方はもはや問題ではなく、今度は急勾配を高速で下るのに対応できるよう他の新幹線よりもブレーキが強化されている。
※登山電車であれば箱根登山鉄道の80‰があるけど、重量が桁違いの長距離特急や貨物列車が多数運行される場所として66.7‰おかしい数値。山陽本線の最急勾配はセノハチと呼ばれる瀬野~八本松の22.6‰、今でも貨物列車は補助機関車で押しているので66.7‰がいかに化け物かわかる。他南海高野線、神戸電鉄などに50‰がある。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?