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クリスチャン・ネーム

カバー写真は「kagetora1130」さまのものを拝借させて頂いております。まずは、この場を借りまして、御礼申し上げますm(__)m

さて、キリスト教徒(クリスチャン)において、プロテスタントには「なく」て、カトリックには「ある」ものが、ございます。その1つが「クリスチャン・ネーム(霊名)」です。広くは「洗礼名」とも呼ばれます。

わたしは、もともと20代前半の頃、まだ出来上がったばかりの「無教会研修所」にて、聖書を、はじめて真剣に学びました。

その後、あまり自分を「キリスト者(クリスチャン)」であると自覚はせずに、大学を卒業し、社会人となり、そこで田川健三氏の書いた『イエスという男』という1冊に出会います。

この一冊を通じて、新約聖書学という学問分野を漠然と知るようになり、そこから先は『イエス研究史』の研究成果に魅かれるようになり…

わたしにとっての「イエス像」は、ますます「学問的」となり、キリスト教の信仰からは離れて行きました。

そんな私に転機が訪れたのは30代半ばのことで、肝炎を患って、緊急入院先の病院にて「急性増悪」を疑われ『最悪の場合も覚悟して下さい!』と告げられ、生死の境を彷徨った、その経験から、わたしは、残りの人生は「クリスチャン」になって「病者に尽くす」と、神さまに誓う…そんな出来事があってからのことでした。

このあたりの「下り」は、その昔に某WEB雑誌に投稿した、わたしの記事に詳しいので、そちらに譲りたいと思います。

わたしが、クリスチャンになろうとして、たどり着いた教会は「カトリック」だったので、洗礼を受けるに際して、ごくごく自然と「洗礼名」なるものが不随してきた…という訳なのです。

ちなみに、わたしの「洗礼名」は、十二使徒のひとり、アルファイの子、ヤコブ(※通称「小ヤコブ」と呼ばれている人物)です。

エル・グレコという画家による作品に〈小ヤコブ〉というタイトルのものがあり、そちらを、わたしは勝手に、自分の「洗礼名」、そのセルフイメージと重ねております。

ちなみに、洗礼名は、カトリックでは「堅信式」のときに変更することができたので、わたしは「聖ヒラリオン」という修道士の名にちなんで「ヒラリオン」を名乗ろうと、堅信式において、その洗礼名は変わるはずだったのですが、ちょうど「コロナ禍」ということで、教会での「堅信式」が中止となり、洗礼名は「ヤコブ」のまま、その後、カトリックからプロテスタントへ教派を変えております。

現在は、単立の、プロテスタント、福音派の教会にて、教会員です。

上記、プロテスタントの教会で「入会式」があったのが、2023年4月23日(日)、主日の出来事でしたが、そこでの、わたしの「洗礼名」の「ゆくえ」は「宙ぶらりん」のままです。

プロテスタントの教会にて、自分の「洗礼名」を名乗ることは、ほぼありませんので、云ってみれば「隠された名前」となりました。

現在、わたしは、カトリック信徒であった頃、堅信式を「コロナ禍」にて受けられなかったため、変えることのできなかった「洗礼名」である「ヒラリオン」には、今もって愛着があり…このヒラリオンなる人物を知ったのは、ヒエロニムスが書いている文章、その邦訳により知ったのですが…
※こちらの1冊に「ヒラリオン」について書かれた文章が収録されています

その「ヒラリオン」について、簡略に書かれた文章が、女子パウロ会のHP内にございます。彼の聖人としての記念日は「10月21日」です。

ヒラリオンは、イスラエルのカザに生まれ、15歳のときに洗礼を受けた。その後、エジプトの砂漠の隠遁者、「修道者の父」といわれる聖アントニオのもとに行き、弟子となった。ヒラリオンの名声が伝わるようになると、彼を慕って多くの人が訪れるようになった。彼はアントニオに迷惑をかけてはならないという謙虚な気持ちから、もっと人里離れたところに退き、修行に専念した。
 その後、彼は修道院を建て、貧しさに徹して生き、貧しい人びとの救いと聖書の研究に生涯をささげたといわれている。

女子パウロ会「キリスト教マメ知識」より抜粋

上記にある「貧しい人びとの救いと聖書の研究に生涯をささげたといわれている」とある箇所が、わたしの最晩年、その理想です。

ヒラリオンは、わたしの実人生、その後半における「見本」としたい人物です。地位や、富や、名声ではなく…ただ「神」のみを求める人生を、わたしも、後年には送りたいと、切に願っております。

サポートして頂いた金額は、その全額を「障がい者」支援の活動に充当させて頂きます。活動やってます。 https://circlecolumba.mystrikingly.com/