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5.「アッバ、父よ」
教皇フランシスコ、2019年1月16日一般謁見演説、「主の祈り」に関する連続講話からです。
以下、必要と思われる箇所から引用させて頂きます。
イエスと出会い、その教えを知ったキリスト者は、もはや神を恐れるべき支配者とは思いません。神を恐れるのではなく、神への信頼が深まるのを感じます。「父よ」と呼びかけることによって、キリスト者は創造主と話すことができます。このことばは、キリスト者にとってあまりにも重要なので、しばしば「アッバ」という原型がそのまま用いられます。
アラム語の表現がギリシア語に翻訳されずに記されるのは、新約においては非常に珍しいことです。イエスご自身の声がまるで「録音されている」かのように、このアラム語のことばに残されているように思えてなりません。イエスの母語が尊重されたのです。「主の祈り」の冒頭で、わたしたちはすぐさま、キリスト教の祈りの抜本的な新しさに触れます。
それは、単に神の神秘と結びつくために象徴を――この場合、父親像――を用いるということではなく、いわば、イエスの世界全体が自分の心に注がれます。それにより、本当の意味で「主の祈り」をささげられるようになります。「父である神」と呼ぶよりも、「アッバ」と唱えるほうが、ずっと親しみがこもっており、心が動かされます。だからこそ、この「アッバ」というアラム語を、「パパ」「お父さん」と訳す人がいるのです。「わたしたちの父よ」と言う代わりに、「パパ」「お父さん」と唱えるのです。もちろん引き続き「わたしたちの父よ」と唱えるのですが、わたしたちは、父親のことを「パパ」「お父さん」と呼ぶ子どものように神とかかわるために、心の中では、「お父さん」と唱えるよう招かれています。
たとえあなたが神を探し求めなくても、神はあなたを探し求めます。たとえあなたが神のことを忘れても、神はあなたを愛してくださいます。たとえあなたが自分のすべての才能を無駄に浪費したと思っても、神はあなたの素晴らしさに目を向けてくださいます。
「父よ」と呼びかけ、まず祈ってください。わたしたちをずっと見守っていると、神は沈黙のうちに語ってくださいます。「父よ、わたしはこんなこともしてしまいました」。そして神はこう答えてくださるでしょう。「わたしはずっとあなたを見守ってきました。すべてを見ていました。わたしはずっとそこにいて、あなたへの愛のうちに、あなたに寄り添っていました」。「父よ」と唱えることをどうか忘れないでください。
次回は「6.わたしたちの父よ」からです。
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