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バブル経済発生を深掘りするといろいろなことが見えてくる

今、中国を始め、世界各国で大手不動産関連企業の破綻が続いている。
中国では恒大集団(エバーグランデ)が事実上破綻したし、欧米では、オーストリアの大手不動産企業、シグナ・ホールディングスが破綻を申請した。

オフィス市場はコロナ禍を機に空室率の上昇と賃料の低下、商業市場は世界的な需要不足とeコマースの台頭による新規物件の需要低下、住宅市場は供給過剰、さらには世界的な金利上昇、建材価格の上昇など不動産市況を取り巻く環境は厳しい。

海外の大手不動産企業の経営悪化、デフォルトリスクの上昇や破綻の影響もあり、不動産市況に対しての見方は様々だが、バブル崩壊を懸念している声も多く聞こえてくる。

日本では1986年11月から1991年5月までの55か月間、資産価格の上昇によって生じた好景気が様々な社会現象をもたらした。
これらの現象や期間を『バブル経済』『バブル期』と呼び、まとめて『バブル』と呼ばれている。

筆者はこのバブル期には生まれていたが幼く、物心もついていなかったので、バブルについては知っているようで知らない。なので興味本位で調べてみるとバブルの発生の原因がなんだったのかがよく分かった。
なので雑駁だがその経緯とともに自分の見識を取りまとめてみる。

日本のバブル経済が発生した直接的な原因は1985年のプラザ合意と言われているが、そのプラザ合意の原因になった事件もあるし、プラザ合意の原因となる事件にも原因がある。

この話を始める前に通貨発行(お金を刷る)に関する前提として頭に入れておくべきことは、以下のことだ。

  • 通貨発行をするとお金の価値が下がり、インフレが起きる

  • お金をある程度刷ればある程度マイルドなインフレになり、刷りすぎれば激しいインフレになる

  • 通貨発行をやめると、インフレが止まって下手するとデフレになる

  • 基本的にデフレ時よりインフレ時の方が景気は良い

  • 景気が良くなりすぎて供給能力が追いつかなくなるとインフレ時の不況に陥る

日本のバブルが発生した直接的な原因のプラザ合意には原因があり、その原因の原因、つまり物事の根源があり、それが1973年に起きた第一次オイルショックだ。

これは1973年の第四次中東戦争(イスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国との間で勃発した戦争)が原因で、当時OPEC(Organization of the Petroleum Exporting Countries:石油輸出国機構)がイスラエルの味方には石油は売らないと宣言し、世界中が混乱に陥った。

当時の日本は農民の工業部門への参入が一段落ついたいわゆる”ルイスの転換点”を超えた状態で、高度経済成長が終わっていて低成長に入りつつあり、既に少し景気の悪い状態であったが、オイルショック時には燃料や石油由来の原料が入ってこないので供給能力がグーッと押さえつけられ供給能力が追い付かなくなり、更に景気悪化が予見されていた。

そこで当時の政府は市場に流通している通貨を20%ぐらい増やすという超金融緩和を行った。
だが、供給能力に制限がある時にあまり需要をふかしすぎるとインフレが加速しすぎて悪性インフレになる。なので、当然のように日本経済はインフレが急速に進み、地価や株価の急騰をもたらす、いわゆる『狂乱物価』が起こって、物価上昇率は最大23%を記録した。

オイルショックがきっかけとなった物価上昇はアメリカでも起き、この時のアメリカは12%ほどの物価上昇率を記録している。

物価上昇率はアメリカが12%、日本は23%。
日本は金融緩和によってお金を刷りすぎた結果、激しいインフレを起こし、アメリカの倍の物価上昇率を記録した。

市場に大量のお金が流通しているにも関わらず、石油が無いのでモノを作れない。供給量が足らないところにお金を刷りまくるとインフレはどんどん進み、賃金上昇よりも物価上昇のスピードが上回っていった。

さすがにこの状況はまずいと感じた政府はすぐに金融引き締めに舵を切り、需要を抑制して日本経済はなんとか持ち直した。その後、物価上昇率が23%から10%弱ぐらいまで収まり、物価はガクンと落ちた。
こうして日本はなんとか第一次オイルショックを乗り切った。

そして次に起きるのがプラザ合意の原因となる事件だが、それが1979年のイラン革命をきっかけに起きた第二次オイルショックだ。
またもOPECが石油の減産を決めた。

この時、皆の頭の中に第一次オイルショックの悪夢が蘇り、『狂乱物価』が再び起きることを恐れた。

供給能力が少ない時に需要を促進すると不況になることを学んだ日本政府は、需要を抑えるために1978年から徐々に金融引き締めを始め、1979年に公定歩合(日銀が民間に貸し付けを行う際に適用される基準金利、現在は基準貸付利率と呼ばれている)を引き上げた。

どの程度引き上げたかというと、当時3.5%~4%程度であった公定歩合を1年で一気に2~3倍の 9%程度まで引き上げた。
これだけ一気に公定歩合を引き上げた結果どうなったかというと、やはりお金が回らず需要は減少した。

しかし、この金融引き締めが功を奏し、第二次オイルショック時の物価上昇率は10%を超えなかった。

教科書には日本は第二次オイルショックは省エネ技術によって乗り切ったと書かれているが、最も大きな要因はこの金融引き締め策によるものだった。

金利が高くなると人々はお金を使うより、預けていた方がお金が増えるのでお金を使わず、需要がぐっと抑えられる。
なので、第二次オイルショックではモノの供給が少ない時に需要が上がるのを抑え込んだことで第一次オイルショック程の不況に陥ることはなかった。
つまり、日本は第一次オイルショックで培った知見を活かし、第二次オイルショックを上手く乗り切ったのだ。

しかし、アメリカはそうはいかなかった。
このアメリカの失敗が日本のバブル発生の原因に繋がることになる。

第二次オイルショックの時、アメリカも日本と同じように金利を引き上げた。
供給不足の時に需要が上がったら危ないということで金利を5%程度から17%ぐらいまで一気に引き上げた。
日本は2倍超に引き上げた金利をアメリカは3倍超引き上げた。
これは考えられないくらいの引き上げだ。

FFレート(Federal Fund Rate:連邦準備銀行が他銀行に資金を借り入れる時に適用される金利)が17%ということは、民間の住宅ローンの貸出金利は20%を超えていただろう。

この時代は銀行に銀行にお金を預けておくだけでその利子で食って行けると言われていた時代だ。
この頃、日本も公定歩合が9%ぐらいなので十年預けておくと預金は2倍以上になった。それだけ需要が旺盛でむしろ供給力が足りない時代だった。

金利が17%だと、普通の人は家や車といったローンを前提としたものを買うことはできない。
すると景気は当然悪くなる。
なので、今度は逆に金利を大幅に下げることになり、米国は1979年に上げた金利を1980年には8%ぐらいまで下げた。

元々5%くらいだった金利を17%まで上げて、8%台まで下げるというこを1年間でやれば経済は大混乱する。

結果、需要が急激に上昇し、物価上昇が止まらなくなった。

そこでまた金利を、もっと引き上げて今度は18%ぐらいまでに引き上げるたが、今度は物価高が抑えられないという悲惨な状態になった。

アメリカの第一次オイルショックの時は物価上昇率は12%だった。
だが、第二次オイルショックの時は物価上昇を上手くコントロールできた日本と違ってこれを更に上回る14%超の物価上昇が起きた。

そのため、この物価上昇を押さえつけるために長い間、高金利にせざるを得なかった。
高金利が長く続くと景気が悪くなり、アメリカの経済がどうしようもなくなった時にバブルの原因になる事件が起こる。

日本はアメリカと比べると第一次オイルショックでは日本の方がダメージ大きかった。だが2回目はアメリカの方が圧倒的にダメージが大きかった。

これでアメリカは物価高が原因でめちゃめちゃ景気が悪くなっていった。
その物価高を抑制するために高金利政策をとったことが失敗だった。

高金利になるので当然これはドル高政策ということになる。
ドル高になるとアメリカの輸出が不振になる。
この時、アメリカ経済を支えてきた輸出企業ビッグスリー「GM」「クライスラー」「フォード」の3社の経営も非常に厳しくなってきた。

それに加えて高金利だから国内の需要も低迷する。
そこでアメリカ政府は政府が借金によって市場にお金を回すDebt Monetary Systemを機能させ、米国債を大量に発行し、政府支出で景気を支えようとした。

そうすると財政赤字が増えていくうえに、輸出不振によって経常収支の赤字になる。
経常収支赤字と財政赤字の双子の赤字というのはここで発生した。

ところがこの赤字の発生原因は何をどう考えてもアメリカの経済政策の失敗なのにアメリカはそれを『貿易摩擦』と呼び日本とドイツのせいにした。

対日赤字、対独赤字(当時はまだ西ドイツ)は非常に大きかったが、特に対日赤字が大きかった。
そしてこの原因は極端な円安だと主張した。

為替相場は1971年のニクソンショックから変動相場制に移行したが、当時円は1ドル360円、1980年初期は1ドル220円~240円程度だった。
この頃、円安ドル高という言葉をよく聞いたと思う。そして、円安ドル高という不適切な為替誘導は是正しなければいけないといった国際協調路線が始まり、1985年 9月にニューヨークのプラザホテルに各国首脳が集まり、いわゆるプラザ合意が行われた。

このプラザ合意では当時の1ドル240円が安すぎると言う声明が出て、日本政府は為替介入を行わざるを得ない状況となり、円高是正強要された。
日本政府が為替介入を行った結果、1985年末には1ドル200円を切る程の円高が急激に進行して、1987年には1ドル140円まで円高が進み、さらに88年には一ドル120円まで円高が進んだ。

これは当然に不況を引き起こし、円高不況と呼ばれる不況がが発生した。
円高になると日本企業がどのような行動を起こすかというと、生産拠点を海外に移し海外から輸出を行うようになる。
今までの最円高は1ドル=80円台。
ここまで円高になったのは今までで1995年の数か月の円高と、2010年~2012年の数年間の2回。この二つの超円高によって日系企業はどんどん海外に逃げて行った。

これに近いようなことが1985年の終わりから86年にかけて起こる。
円高不況で起こってやばいとなった。
景気が悪くなって日本政府は極端な金融緩和に走った。

つまりバブルの原因にとなったのはプラザ合意による円高政策によって起きた円高不況なのだ。
では、なぜプラザ合意が成されたかというと、第二次オイルショックでアメリカがとった経済政策の失敗なのだ。

すべては第一次オイルショックから始まっていた。
1985年の段階で円高不況が起こり、86年から日銀が公定歩合(政策金利)を引き下げた。
その時点では5%ぐらいだった政策金利が一年ぐらいで半分の2.5%まで下がった。
当時、住宅ローンを借りるのに8%~9%の金利がかかっていたのに金利が2.5%~3%になったら人々はどう行動するだろうか。

今が借り時と考えて銀行からお金を借りてバンバンお金を使うだろう。
不動産神話の名のもとに人々は銀行からお金を借りて不動産を買いあさることで不動産価格はどんどんと上がり、バブルが膨れていったのである。


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