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映画「ザリガニの鳴くところ」感想・雑感についての稿

今回はいつもと趣向を変えて、アマプラで観た映画の感想記事です。

なお、本編のあらすじは↓こちら。



物語は……いやそもそも、物語というものは、一体何を形作るために紡がれるのか。

本作、「ザリガニの鳴くところ」では、弱者と強者が対比のように置かれ、その狭間に「無関心の分厚い層」が立ちはだかっている。
ほぼ、現実と同じ構図だ。

弱者は強者には逆らえず、強者は弱者を意のままに操り、屈服させようとする。
無関心の分厚い「層」をなす人間たちは、その光景を見ては見ぬふりをし、それでいて弱者の行動に逐一目を光らせている。

ヒルビリー。レッドネック。あるいは、ホワイトトラッシュ。
(本作は過去の物語だが、現代の方がその病根は深いし、不快だ)
現実のアメリカでは、中間層は日本と同じく崩壊(自由の気風があるぶん、救われない人間の悲惨さはこちらの方が逆に深刻かも知れない)している。
社会の歯車から転落し、無産者にまで転がり落ちた白人の、そんな別名たちを聞いたあとで。
本作主人公である「カイア」(キャサリン・クラーク)の生い立ちから現在までを眺めると、アメリカ……いや日本、その他世界の国々にことごとく存在するであろういわゆる「棄民」の、存在を知りつつ敢えて目に入れることを避けてきた我々自らの行いにまずは、羞恥するに違いない。

被差別民、という言葉が、日本においては存在する。
アメリカには、ないことになっているが、その実、根はアメリカの方が深い。
我々日本人には実は、なかなか分からない。
かつて先住民から国を奪い、狭い自治区に押し込め、開拓と称して24ドルで買い取ったマンハッタンを、世界一の金融都市・商業都市・芸術都市・観光都市へと変貌させた白人は今、あらゆるところから振り上げられたポリコレ棒によるものか、あるいは自責の念からか……それとも、まさに弱者からの一撃によるものか、同じアメリカに住む他の民族と同様に、平等に、没落し棄てられる危険におびえて生きている。
これが自然の言う弱肉強食だというのなら、人間の理想というのは凄まじいものだ。たとえ過去には勇ましい開拓民であっても、商業の礎を築いた上級国民であっても、今や同胞という狗肉を捧げなければ生き延びることすらままならない、というのだから。

「カイア」は、棄民の子である。父親の暴力に耐えかね、母親が、兄が、姉が出て行き、彼女だけが父の元に残った。
自然界の弱肉強食に学び、彼女は父の元で生きる術を学ぶ。
コンクリートを裸足で感じ、小さな船を湿地に操り、わずかながらの父のお情けをちょうだいして、生き残る。
だが、母が二度と戻らないと知り激怒した父もまた姿を消し、彼女はひとり湿地に取り残された。

……紹介が遅くなったが、本作は法廷サスペンスでもある。
チェイスという資産家の子息が、火の見櫓の高層から転落し、死亡した。
嫌疑は、「湿地の女」と呼ばれ疎まれ蔑まれていた彼女、カイアにかかった。

引退弁護士トム・ミルトンが彼女の弁護にあたる。その過程で、カイア自身の孤独において培ったかたくなな心に分け入り、少しずつ「彼女の生い立ちとその生活・生き様」を解きほぐすキーマンとなる。

彼女の「野生で生きるための行動」は、徹底している。
それは、自然界というのは、いじめも、虐殺も、虐待も、狡知も、略奪も、差別も、階層も、上下関係も、人間界で忌避されるべき全ての憎悪も、存在しており、その中ではただ「生き抜くこと」こそが正義であり、そのための手段は厭わない、という決意の形で読み取れる。

「自然には善悪がない。全てが生きるために懸命なのだ」

劇中、彼女、カイアは言う。
この言葉はとあるシーンのキィとなる。重要な言葉だ。

まさに、彼女は己の言の通りに行動していた。終始。
危険を察知すると、いつも彼女はまず身を隠し、逃げる。
それは、父親からも、グループホームの職員からも、自分を一時捨てた恋人、テイトからも、二度目の恋人、チェイスからも。
また、自分の身に危害を加えたならば、反撃し、相手に痛烈な一打を食らわせることに躊躇はない。
暴力は野蛮だ。暴力はいけない。なんてのは、人間社会の中での摂理に過ぎず、世捨て人であった彼女はそのルールの外に生きているのだ。

しかし。
ルールの外にいる人間のことを、大抵の「無関心な層である」一般人は、知らない。
無知は、人の心の痛みを鈍感にさせる作用がある。
鈍感でさえあれば、苦しむ人間の痛みに同情し同様に心を痛めることもせずにすむ。
苦しいであろう生活を、殴られるであろう恐怖を、悼み、共に悲しむ気を起こさなくてすむ。
そして、鈍感な心は中間層の心を、容易に軽蔑へと運ぶ。

差別と呼ばれる現象は、どこにでもある。
大抵は無知から来るものだが、なぜ無知が放置されるかというと、誰も軽蔑すべき人間を詳しく知りたい、とは思わないからだ。

だが、……本稿の、冒頭に戻る。

物語は……いやそもそも、物語というものは、一体何を形作るために紡がれるのか。

本作においてもそうだが、物語の中においてだけは、社会に棄てられた弱者に心を通わせ、温かい目で見守り、心から平等を叫び、人である人の心に涙することが出来る。
それが、無関心な中間層という「普通人」の習わしである。

実際には……ということを述べるのは、野暮だろうか。
棄民の子に心通わせる男が、(いくらその子が聡明で美人だからといって)本当にいるだろうか。
棄民の子を、平等に裁く陪審員が。
棄民の子を一度捨て、怒らせたことを、心から謝罪し、そしてまた心通わせる努力をする誠実な彼が。
棄民の子と同じように(おそらく)差別に逢い、面従腹背で白人社会に溶け込みつつも、その子を遠くから見守り、温かい隣人愛で包む黒人の夫婦が。
棄民の子が優秀な博物学者であることを見抜き、一回の投稿だけで出版まで決断する有能なる編集者が。
そして。
棄民の子を、本気で信じ、有罪に染まりそうな裁判を、陪審員の心に訴えかけ、無罪へとひっくり返せるような弁護士が。

本当に、当時の、また今のアメリカに、いるだろうか?

野暮だ。
いると仮定するのが、物語だ。

ちなみに。
物語のラストのラスト、ある重要な事実が明かされる。
が、あえてここでは明言しない。
本作をごらんになる方は、ぜひ最後までお見逃しのないよう願いたい。

さて。

我々は基本、弱者には無関心である。
その無関心を貫かなければ、人間社会という「疑似自然」の中ではまた、生きていけない。
しかし、物語の中でだけは、その無関心にきちんと罪悪感を感じられ、人間として有情であることを否定されない。
そんな時間もまた、「無関心人」にとっては有益であろう。

棄民の、弱者の中にあって、彼女はきちんと生きる術と、知性を学んで、社会に勝った。
自分が言えることは、それだけだ。

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