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身内贔屓

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、表題の件について少しだけ語ってみたいと思います。

都知事選、終わりました。
結果を見てから総評をするのは、後出しじゃんけんにも等しい行為なので辞めておきます。代わりに。
選挙が終わったあと、いまだくすぶる蓮舫候補の「R」の問題。
それに関連して、自分がずっと思っていることについて、まとめてみようと思います。

なぜか ”Lien Fang" と綴るはずの蓮舫議員を応援する人たちが「R」のステッカーを掲げて街中の建造物に(しかも選挙期間中に)貼り付けていっていた。
そんな行為が、某SNSで話題になっておりました。
なぜLでなくRなのか。実は、この疑問は簡単に氷解するのです。

蓮舫議員のインスタグラム。アカウントは ”Renho Sha” と記載されているのです。つまり、議員ご自身は日本語スペルに基づいて自身のお名前を表記されていたのですね。
なので、Rで間違いないわけです。

さて。
そんなことはどうでもよくて、某SNS界隈では、明らかに違法に貼り付けられた(器物損壊罪にあたるのでは? という指摘も)これらRのステッカーについて、さっさと剥がせ、取り巻きは謝罪しろ、街を汚すな等、ここぞとばかりに今までの蓮舫候補がやってきた「全方向滅多打ち罵詈雑言」をやりかえすかのように口撃が続いておりますが、これについて当の蓮舫氏自身は「まったく意味が分からない」と当初コメントしておられました。
が、後に撤回。「速やかに原状回復を」とトーンダウンしてコメントするに至りました。

これによって、立憲議員の中にも本件を問題視する方が自主的にステッカーを剥がして回る様子を某SNSにUPしたところ。
これにも噛みつくポストが多く見られ、中には、
「グラフィティアート、たとえばバンクシーの絵なら良くてステッカーはだめなのか」
などのアクロバット擁護も見られる始末。

こういうのは明らかに無理筋なのですが。
では、こういった方々は自分たちの擁護が無理筋であることに、果たして気づいているのかいないのか。
気づいているとしたらなぜやるのか。気づいていないとしたらどういう認知のゆがみなのか。
そのへんを語ってみたいなぁと思います。

……というか。
表題で全てを語り終えています。
所詮は、「身内贔屓」に過ぎないのです。
人間というのはことごとく認知が甘い生き物でして、自分の行動には甘く、他人の行動には厳しい。自分にやられたら怒鳴り散らすような悪態を、他人には平気でつく。自分の好きな人にはとことん甘いが、嫌いな人にはなにをやってもいい。実はそう考える人が多いです。……いや。
多いです、では認識が甘い。

ほとんどの人が、そうです。

韓国のことわざに、こんなものがあります。
「自ロ他不」。
これは、
「自分がやればロマンス、他人がやれば不倫」
の略です。現地の発音だと、「ネロナムブル」、となるようです。

また、中国の論語には、「父為子隠」という故事が記されております。
たとえ法を犯していたとしても、家族ならばそれを互いに隠してかばいだてするのが人間ってもんでしょう、というような内容です。

私は、私自身がこの傾向があることをよく認識しています。
某SNSでは、Rのような悪事が露見するたびに
「どうしてまず『ごめんなさい』の一言が言えないのか」
という皮肉のポストが流れますが。

……それが、一番難しいんですよ。
自分が間違っていた、と認め、謝罪し撤回する。
これは、ほんとうに難しい。
ましてや、自分が本当に信じ、正しい行いだと自らを奮い立たせ行った行為については、特に。

ワンピース、という、有名な漫画があります。
この漫画は、本稿の内容において多分に示唆的であります。
ワンピースの主人公、ルフィは、「海賊」です。
つまりは、「反体制」の人間ということです。
しかし、我々は主人公としてのルフィ側から物語りを見ているので、海賊たるルフィの行為を「善」、体制側の海軍の弾圧を「悪」として見ています。
(今ではもう、物語の本編はそんな単純な構図じゃなくなってますが)
なので、ルフィの振るうゴムゴムの銃もゴムゴムの火拳銃も、暴力ではなく正義の鉄槌に見えますし、赤犬が火拳のエースに放った悪口雑言には心底ピリついたものです。(だいたいどの辺で読むのをギブアップしたかばれますな)

これが、日本という、あるいはどの世界においても、法のもとであれば(というか、海軍側から見れば、と言い換えても)拳を振るえば暴力ですし、なんらかの罪に問われるわけです。
ただこれが、正義の拳だとどうか? いや、どうか? と言われましても、拳であるかぎり暴力です。ルフィのゴムゴム~も、赤犬のマグマも、等しく暴力であることに変わりはありません。

ここを、腹から飲み込める人は意外と少ないのです。

ワンピースの話はこれくらいにして、同じような例をひっぱってきます。
アカデミー賞授賞式の際、奥方をバカにしたクリス・ロックを、ウィル・スミスが平手打ちした際、喝采を揚げたのは日本人だった、というのは記憶に新しいところであります。
アメリカでは文化の違いから、暴力についてはかなり非寛容です。たとえば日本の漫才における突っ込みで「頭をはたく」のも、暴力と受け取られかねないとか。
ただ、少なくとも日本では、忍耐の限りを尽くしたあとに身内を侮辱されたばあい、これは暴力に訴えない方が「腰抜け」である、という認識があるような気がします。
ですが、それでもやはり、暴力は暴力です。

暴力が真に悪なのか、とか、そういう話ではなく。
法による規定を、破るか破らないかの境目は、「俺自身が決める!」と、多くの人が考えている、ということではないか、と思います。

そしてそれがいいとか悪いとか、私は言うつもりはありません。

何が言いたいかと言うと、
「法の境目は俺自身が決める!」と考えている人が多い以上、そういう多くの人たちの判断は、敵に厳しく身内に甘くなるに決まっているし、それを指摘したところでその人は己の非を絶対に認めないでしょうし、逆上して殴りかかることすら辞さないだろう、ということです。

そう。
世の中の多くの人は、おそらく、
「自分自身に相当強い利害が、圧力が、強制力が働かない限り」、
「自主的に――自ら進んで」、自らの非を認めて謝罪する、という行為は、不可能ごとに近い、ということです。

不可能ごとに近いからこそ、敵に対してはすぐに非をあげつらい、悪口を投げつけ、責めまくり、謝罪を要求し。
味方については、とことんまで擁護し、守り、言い訳をし、それでいて決定的な言質を取られないようのらりくらりと逃げ回る。
それが、人間というものだ、ということです。

Rさんのあの態度は、褒められたものではないが、そういう意味ではとても「人間的」だと思います。
人の悪が許せず、自分の善はどこまでも押し通したいというのが人間の本能である。そう結論づけてよいのではないでしょうか。

ですから。
強制力が働いたであろう謝罪会見で、深々と頭を下げられる人たちを、我々はもっと尊敬するべきですし、その強制力に思いをはせ、彼らに頭を下げさせたのは何者だろうと類推し、それが庶民である自分だったときには、もし自分があの場にいたら同じように頭を下げられただろうかと自問する。
そんな想像を巡らしてみると。

この生きづらい世の中で、なぜ悪人ばかりが跋扈するのかと嘆くまえに。
その悪人の一人こそ自分じゃないか、などと気づくことが出来るかも知れませんよ。

自分という人間は、自分自身が思っているほど善人ではない。
これは、わりと全人類が心すべきことであります。
人間は性利己の生き物です。
利己のためにわりとなんでもやる。そういう化け物を必ず、自身の心に飼っていることを忘れないでいただきたいものです。

自称リベラルの皆様は、特に。

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