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田舎で虫を追いかけていた子供がゲームプログラマーになっていた件

 裏山でハチに追いかけられる時だけ全力を出していました(挨拶)

 そんな訳で、初めましての方は初めまして。諌月くれかです。虫好きの子供だった筈が、いつの間にか人生五十年を目前にしつつある年月が経過してしまいました。思えば遠くへ何とやら。体力はすっかりなくなりましたが。
 だから何だという話ではありますが、noteのこのスペースいつまで空っぽのままなんだということで、自己紹介代わりにこれまでの半生をざっくり振り返ってみようか、という感じです。多分、冗長。

 生まれたのは1976年、北海道は札幌の病院でした。が、その後育った場所は夕張。当時はまだ炭鉱が現役稼働していて、実家は南大夕張炭鉱の社宅でした。住所でいうと、南部若美町。近年だと、そこから南に降りて行った先にある南部青葉町あたりが、廃墟と化した町としてたまに訪れた人の写真が上がっているのを見かけますね。当時の南部青葉町とかは、山側の若美町が上にあったのに比して「下町」という呼び方していて、たまに駄菓子を買いに出かける場所でした。店も多かった記憶があります。
 炭鉱が現役だったので、家の目の前には線路があって、そこを毎日石炭貨車が何度も走っていました。ディーゼル機関車に引かれた石炭の山。たまに人が乗る客車を引っ張ってることもあります。線路脇には用水路?排水路?みたいなのがあって、そこにヤゴとかおたまじゃくしが住んでおり、よく捕まえたりしてました。ここに限らず、夕張の中でも南大夕張~大夕張エリアはかなりの山奥の部類なので、基本的に家の周りはどこもかしこも生き物天国です。道路や土の場所はヒナバッタやトノサマバッタ、草地に入るとイナゴや各種キリギリス系のバッタ、秋には空をトンボが埋め尽くします。親が昆虫図鑑とか買ってくれていた事もあって、虫好き人間として育ちました。ただ、虫なら何でも好きだったかというとそういう訳でもなくて、芋虫毛虫はちょっと苦手でした。まあ、庭で野菜栽培していたのですが、ジャガイモにはオオニジュウヤホシテントウの幼虫、キャベツやアブラナにはモンシロチョウやスジグロシロチョウの青虫がびっしり付くので、多分そのせいだったかもしれません。あとカメムシ。冬になると、奴ら越冬の為に建物の中に退去して押し寄せるんですが、学校の机の中とか、給食の中に侵入してくることがあり、気づかずにその洗礼をよく受ける事が(田舎あるある)
 あと、だいたい4年ごとくらいの間隔でマイマイガが大発生します。大量のマイマイガが壁や路上を卵で埋め尽くし、そのまま車に引かれて死ぬわ、臭い匂いが町中を覆うわで悪夢です。ついでに翌年にはその卵から大量の毛虫が発生する上、この毛虫がものすごく毒々しい見た目で生理的にダメでした。色んな芋虫毛虫への抵抗感が無くなった今でも、マイマイガの毛虫だけは駄目です。勘弁して欲しい。

 ……などと、まあ書き出すときりがないんですが、ともかくも自然だらけの場所で、そのくせ運動はからきし駄目な子供だったので、基本的には虫探しとか山菜採り(裏山で)とか、そういう過ごし方が多かったと思います。あとは、レゴですね。最初に買ってもらったのはダイヤブロックだったんですが、じきにレゴだらけになりました。
 そんな幼少期ですが、周りから聞く限り、最初の夢は「バスの運転手さん」だったそうです。何でや。全く覚えがない。その次あたりから「昆虫博士」でした。これは覚えている。好きなものを将来の仕事にしたいと思うのは自然の流れ。でも、その後成長していくと「……それで食っていくの大変では?」みたいに醒めてしまったようで、またコロコロと希望が変わっていきます。
 で、後から考えて自分が少し特殊な環境だったなと思うのは、小学一年生の頃にパソコンを触り始めた事だと思います。これは別に親に買ってもらったという訳ではなく、「ファミコンが欲しい」→「遊ぶ機械なんて駄目」→「親が仕事用に買ったパソコンを、空いてる時間にさわるのはOK」という流れの結果でした。前二つの流れは、当時少なくない子供が通った道ではないかなと思いますが、そこでパソコンならOKみたいなのはレアケースだと思われます。そもそも、パソコンっていうものがまだあんまり一般的じゃない時代です。世の主流は8bitパソコン。マイコンなんて呼び方の方がまだ多かった頃で、そんな時に親が買ったのが16bitのPC-9801F2。ビジネス用のハイスペック機みたいな売り方の機種だった気がしますが、でもまぁ付属のでもディスクにはゲームプログラムが収録されている訳で、子供の時分が最初にやったのはそれらのゲームでした。「ファミコンはゲームやる機械だから駄目」とは一体。
 しかし程なく、プログラムというものに興味を持つ事になります。ベーマガとかのプログラム掲載雑誌もありましたが、それ以外にBASICの本とかマシン語の本とか、そういうの結構揃えて色々「遊び」ました。プログラミングは遊びの一種という感覚でした。これが将来の仕事に繋がるとは思っていませんでしたが。

 さて、そういう田舎暮らし(+何故か田舎らしくないパソコン付)でそのまま大人になると思っていた自分にとって、一大事件が起きたのは小学五年の時。その少し前に、炭鉱で大規模な爆発事故が発生し、友人の親にも犠牲者が出た事も記憶に新しい時期でしたが、炭鉱の閉山が決まったのです。それに伴い、親は埼玉に転勤という事になりました。炭鉱勤めではありましたが、直接掘る方ではなく電気技師だったので、閉山決定に伴う転属が早かったようです。それで、突然に引っ越しという事になりました。山奥から突然の関東首都圏エリアへの引っ越しです。最初に飛行機で東京に降り立った時の感想は、「釜茹で地獄かなここ?」でした。そう、八月の引っ越しだったのです。北海道の山奥では夏の気温なんてまず30度超えませんし、建物もまばら、道路も土の箇所が多いしで蒸し暑いなんて経験がありません。比べて都心はアスファルトだらけの地面、ビルの壁からの放熱、そして大量のエアコン室外機からの熱風で、想像を絶する灼熱地獄。「あっ死んだ」と思うのもやむなし。不安しかありませんでした。
 不安といえば、勉強についていけるのかという問題もありました。なんとなく、都会の方が勉強進んでそうというイメージがあったんですが、これは自分にとってはあまり違いがありませんでした。小中学の頃はあんまり勉強しなくてもそれなりにいい成績取れる方だった為、苦労した記憶がありません。などと言うとアレなんですが、こういう子供にありがちな流れとして、勉強をする習慣、塾に通う経験がない事により、中学後半から成績は下降の一途を辿ります。第一志望の高校には受験失敗し、大学受験も第一から第四志望まで全滅。もっとも、大学受験の失敗は、落ちまくった学力のくせに「高望み」しすぎた事も一因で、上位志望対象が揃って「航空宇宙系」ばっかりでした。だいたいラピュタのせいです。黒歴史。唯一、東海大学航空宇宙学科の数学だけはほぼ満点取った自信がありましたが、英語が壊滅的で駄目でした。結局通ったのは東京電機大学と東洋大学で、入学したのは東京電機大学でした。電大なら推薦取れたような気もしますが、そこはそれ。理工学部なので、名前が「東京」なのに埼玉の片田舎です。

 大学時代は、あんまり勉強面で印象に残った事がありません。駄目じゃん。当時の学科は情報科学科?でしたが(今は再編成を重ねて学科が色々変わってる)、プログラム系については半分以上が独習済。加えて、この時期は将来の仕事は何するんだろうというのが受験失敗に伴い振り出しに戻っていて、何となくぼーっと過ごしていたような気がします。卒業時単位がギリギリだった事もその裏付け(良い子は真似してはいけない)

 大学四年を迎える前後で就職活動の時期が来た訳ですが、当時は就職氷河期が訪れた頃合いで、内定を取れないケースも多く、世間的には大変な時代だったと思います。ただ、職種によってもちろん偏りはあって、プログラム系だとまだ他よりは探す余地があった気がします。で、自分に何ができるか考えた時に、ほぼ独学でしたがプログラムくらいしかなかったので、その方向で就活対象を探しました。……で、この時点では全然ゲーム業界は考えていなかったんですが。就活を迎える学生の家には、ちまちま企業からのダイレクトメールが届きます。多い訳ではありませんが、それでも理系だとまだそれなりの量が届きました。そうしたDMの中に、一社だけゲームメーカーからのものがありました。そう、セガです。それで「そうか、ゲームプログラマーという選択肢もあるのか」となった訳です。ということで就活対象にいくつかゲームメーカーを加えましたが、ファルコム、アトラスは書類落ち。ナムコは圧迫面接落ち。通ったのはきっかけになったセガのみ。今思うと、何で通ったのかよく分かりません。マシン語メインの趣味の話で盛り上がっただけだった気がするんですが。

 そんなこんなで、ゲームプログラマーを職業にする事になり、現在に至る訳ですが、変化が苦手マンなこともあって、転職する事なくここまで来ました。二十年超えてしまいましたね。昔はゲーム業界は重労働が過酷で、月300時間近い残業だのと現在ではあり得ない状況が発生したりもしましたが、今はすっかり労務管理が整備され、過労みたいなケースはかなり軽減されたと思います。とは言え、当時の過労とか無茶は当然ながら間違いなく健康にダメージを与えており、一度長期休職を挟んだりもしています。若い頃の無茶は駄目なんだな……と気づくのは、誰しも実際に体を壊したりした後になってから。是非もないね。

 最初の仕事はエターナルアルカディアというゲームでした。今はなきドリームキャストという機種での開発です。二十年以上も仕事をしていると、様々な機種を経験する事になりましたね。ドリームキャスト自体が終わってしまったので、その後はPS2、PS3、PS4、PS5、PSP、PS Vita、Wii、DS、Xbox……最近だと、スマホやPCも含めて更に対象が広いので、考えないといけないことも増えたように思います。何より、そもそもの開発コストが高くなりがちなので、その辺昔と色々勝手が違う点もあります。加えて、一度休職して体力も思考力も限度があるので、いつまでこの仕事出来るかなという懸念も割とあり、人生五十年を前にして色々と岐路に立っているのかなあと思う日々です。

で、こんな流れなので、虫好き方面は子供時代でもう終わりみたいなところがあったんですが、10年前に休職した際、休んでいる間に休む以外に何かできることないかなと少し悩んだ時期がありまして。それまでは趣味として同人音楽で長らく活動していた訳ですが、この休職を境に創作活動の気力の大半を喪失してしまっており、燃え尽きたもぬけの殻になってしまったので、何か他の気晴らし出来る趣味を探さないとなーと考え、とりあえずは買ったままほとんど使っていなかったカメラで散歩ついでに何か撮る事にしました。その試行錯誤の過程でたどり着いたのが、「虫撮り」です。三つ子の魂何とやら。結果、撮るだけでは飽き足らず、虫だの魚だの植物だの、いろんなものを採取・飼育・栽培するように。今も部屋にはたくさんのかたつむりやワラジムシ、ミミズ、テッポウエビ、各種熱帯魚がいたりします。数年前にはバッタやカマキリも色々飼いました。ベランダには柑橘類を植え、毎年アゲハの幼虫がやってくるのを楽しみにしています。野鳥は流石に飼えないので写真だけですが、それを撮る為に大量のカメラ機材が増えました。予算やばい。そして体力もないと、あちこち撮り歩くのはしんどいという事がよくわかりました。特に山とか高原。肩と腰がつらい。体力は大事。

 ……などという流れで、なんか脈絡も何もない駄文をだらだらと書いてしまいましたが、今思うことは、

 ・若いからって無茶すると取り返しがつかない(ちゃんと寝ろ)
 ・強い意志の持ち主以外はなるようにしかならないが、なるようにはなる
 ・ねこかわいい

といったところでしょうか。

 ……ねこの話してないな?

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