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本当にガイドブックだった😲笑【全文あり】【試される忍耐力】

話題になっておりますこちらの作文

宮内庁は16日、秋篠宮家の長男悠仁さま(15)=お茶の水女子大付属中3年=が書かれたコンクール入選作文の一部が、他の文献の表現と酷似していたと明らかにした。無断で使用していたとみられ、宮内庁は「引用元を明記せず、不十分だった」としている。15日に主催者側に伝えており、改めて参考にした資料などを確認する。

ま さ か の 盗用 ! !

そして疑惑はひとつではなかった

また、サンゴ礁に関する記述も、ウェブ上で閲覧できる研究情報誌のインタビュー記事と似ていたという。

さらに

悠仁さまはこうした指摘があったことに感謝しているという

え、、、その前に謝ろう???


週刊新潮の記事はさらに刺激的です

極め付きは、その直後の箇所である。悠仁さまの作文では、先の疑問に答えるような形で、こう続く。

〈あるものは海流に乗って運ばれ、あるものは風によって運ばれ、翼をもつものは自力で、あるいはそれに紛れて、三つのW、Wave(波)、Wind(風)、Wing(翼)によって、海を越えて小笠原の島々にたどり着き、環境に適応したものだけが生き残ることができました〉

 中学2年生とは思えない、読む者の想像力をいや応なくかき立てる表現力。一方で、前出のガイドブックには以下のようにつづられている。

〈あるものたちは風によって運ばれ、また、あるものは海流に乗って。あるいは、翼を持つものは自力で、またはそれに紛れて。いわゆる3W、風(Wind)、波(Wave)、翼(Wing)により、数少ない生きものだけが海を越えて小笠原の島々にたどり着くことができた〉

同じじゃん!!

画像で見ると更なるインパクトです

悠仁氏

画像1

JTBパブリッシング

画像2


秋篠宮家の長男・悠仁さま(15才)が文学賞に入賞された作文の一部が、それより以前に発表されたほかの人の文章に酷似していることがわかった。

どんなに忖度した表現にしても、これ、客観的には盗用ですよね。

皇族は

参考文献不十分でした

ですむんだなあ

==================

それにしても、この感想文読んだ時(ほんとに長くて苦痛でした)

「なんだこれ。ガイドブックじゃん」

と思ったのですが(後出しじゃんけんみたいですが、ほんとなんです!)

本当にガイドブックだった!!!


なんか、逆に、ちょっとすがすがしくて面白い・・・

この作文、PDFしかないので、途中まで自分で起こしたんですが、友人が教えてくれたサイトで変換して貼り付けてみました!

ご興味ある方、読んでみてください。でもほんとガイドブックなので、悠仁さんの人となりや思いを知りたい人にはお勧めしません。

起こしながらついつい感想も書いてしまっていたので、そのまま載せますね。言葉遣いにイライラが表れており恐縮です。後半はワード変換のままなので、感想なしです。(と言いつつちょっと書いてしまった)

忍耐力が試されます。

https://www.kitakyushucity-bungakukan.jp/wp-content/uploads/2021/03/No12.pdf


「小笠原諸島を訪ねて」


今年は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で約二週間の夏休みとなりました。このようなことにより中学校の休暇期間中に旅行にいくことが難しかったので、今まで出かけた場所を思い出しながら振り返ってみることにしました。数ある思い出の中で、特に印象に残ていることのひとつが、三年前、私が小学校五年生の夏休みに母と一緒に行った小笠原諸島への旅行です。私は初めて大型の船に乗り、二十四時間かけて小笠原諸島に向かいました。
この旅行で撮った写真や手元の本・資料を見ながら、小笠原諸島を訪ねた時のことを記してみたいと思います。

小笠原諸島は東京都ですが、約千キロメートル離れたところにある島です。したがって、この場所に行くためには、東京の竹芝桟橋から小笠原諸島の父島の二見港まで貨客船の「おがさわら丸」に乗っていく必要があります。船は天候の影響を受けやすく、台風の進路によっては欠航になることもあります。
「おがさわら丸」に乗船し、自分の荷物を部屋に入れ、出航の様子を見るために急いで甲板に出ました。そこには、すでに大勢の人が出航の様子を見ようと集まってきていました。(だから何だというのだ)
船が離岸し南下していくと、東京湾内の高層ビルが立ち並ぶ風景から、広い海の景色に変わりました。海は穏やかで、あまり揺れもなく、想像していた以上に快適でした。(そっか。。)
船内には個室から大部屋までの客室がたくさんあり、洋室も和室もありました。売店、レストラン、船内案内所などがあり、まるで小さなホテルのようでした。(そうですか…だから何)
昼食を得た後、再び展望デッキに出海を眺めると、漁船や貨物船などが何隻も見えました。昼間に強かった日差しは夕方になるとやわらぎ、(当たり前)十八時過ぎに太陽が沈んでいく様子ゆっくりと望むことができました。夕食の後、もう一度デッキに上がって、満点の星空を観察しました。夏の大三角形、さそり座などを見ることができ、その晩は心地よい眠りにつきました。(日記のようだ)
夜が明け、日の出を見ようと五時前に起きました。窓の外を見ると、空が明るくなり始め、海原が広がっていました。急いでデッキに上がり、水平線から昇る朝日を眺めました。九時ごろになると進行方向左側にアホウドリの移住地として知られる千島の先端が見え始めました。目的地の小笠原諸島の父島に近づいていることがわかり、とてもうれしい気持ちになりました。下船の準備のため荷造りをしているうちに、船は父島にどんどん近づき、あっという間に二見港に十一時ごろ到着しました。

長くなるので注: 最初は、延々とあれしたこれした読まされて勘弁してよと思ったのですが、もう一度読んだら朝日の情景が目に浮かび、なかなかいいと思いました。父島行きたくなりました


ここからは、小笠原諸島で過ごした五日間の中で特に印象に残ったことや考えたことなどを紹介します。(なんだこの何のひねりもない場面転換は。。)
まずは、島の自然についてです。小笠原の海の色は美しい青色をしており、「ボニンブルー」と表現されます。ボニンとは英語で小笠原諸島を表すBonin Islandsにちなんだ言葉です。青い海をイメージすると沖縄を思い浮かべる人が多いと思いますが、小笠原の海の色は沖縄とは違う深く濃い青色です。(ふーーん)

また、サンゴが生息しているところや、砂浜が広がっているところではエメラルドグリーンになっているところもあり、色の多様さも楽しむことができます。(そうだろうけど、、、彼がどやどやと説明することだろうか?多様な海の色が素晴らしくて感動したと書くならともかく)透明度は三十メートルを超え、沖縄と双璧をなす澄んだ海です。


その海中には、様々な生物がいます。代表的なものとしてウミガメをあげることができます。ウミガメは本土の近海にもいますが、特にアオウミガメは、小笠原諸島の近海に課す多く生息しています。小笠原諸島は日本で最大のアオウミガメの繁殖地です。ガイドの方が案内してくださった無人島のみ内示までは、美しい風景が広がり、真っ白な扇池の砂浜で孵化したばかりの可愛いウミガメの赤ちゃんを見ることができました。大きさは八センチメートルほどで、よちよち歩いていました。(それで、感想は…?そこから何を感じたのかが大事なのでは)

また、小笠原海洋センターでは、水槽で飼育しているウミガメを観察して野菜を与え、ウミガメの生態や調査の展示パネルを見てまわりました。現在、ウミガメは国際自然保護連合レッドリストで、絶滅危惧r種に指定されていますが、このセンターでは、海洋生物の多様性の維持のために、様々な保全活動をしていることを知りました。そして、近くの浜辺で、センターの方と一緒に標識を付けた子ガメを放し、子ガメがゆっくりと進み、海に入っていく姿を見送りました。(これ、すごい貴重な体験なのでは?!感動するんじゃないかと思うのですが、何も思わなかったのでしょうか…?書き手が何を思ったのかを書くのが作文とか感想文だと思ってました)

次に、魚についてです。(雑なつなぎだ)南島を後にして、船で海中公園に行きました。そこには、クマダイやクマノミ、ノコギリダイなどいろいろな種類の亜熱帯性の海水魚が泳いでいました。シュノーケルとマスク、そしてフィンを付けて海に潜ると魚が近寄ってきて、私はその数の多さに驚きました。(ようやく私登場)また、水深数メートルのところに、キイロハギがエダサンゴの中を泳ぐ姿や、ウミガメがエダサンゴの上で休んだためにへこんだ跡も見ることができました。このように、少し小笠原の海に入っただけでも豊かな生態系にふれることができます。
(そうですか…いいなあ)

小笠原の山はどうでしょうか。(ちょ、また雑すぎるつなぎ)(どうだろう)
小笠原諸島の気候は亜熱帯に属しているため、本州では見られない固有種を見ることができます、植物では、タコノキ、ムニンヒメツバキなど、動物ではオガサワラオオコウモリ、ハハジマメグロなどです。しかし、近年の小笠原諸島では、固有の動物が外来種に食べられるという問題が起こっています。(へえ)グリーンアノールというイグアナの仲間やプラナリアの一種はオガサワラシジミなどの貴重な昆虫を食べてしまいます。(へえ)そのため、小笠原では、島や森林に入る前に、在来生物を守ることを目的として、消毒液でプラナリアを落としたり靴についた趣旨を除去したりしています。「おがさわら丸」に乗船した時も下船するときにも靴底を洗浄する行動の大切さが良く理解できました。(ここは素直に読めた)私たち観光客も、貴重な自然を守ることを心掛ける行動をとることはとても大事だと思います。(率先垂範よろしく)
父島の南端には、千尋岩という岩があります。ガイドの方の案内で、ふもとから三時間以上かけて森の中を登っていくと視界が開け、ボニンブルーの海が広がり、南島も見えます。千尋岩はハートロックとも呼ばれ、海から見るとハートの形をした岩になっているので、その名がつけられたそうです。高さは二百メートル以上あり、

==自力書き起こしここまで==
==ここからiLovePDFに任せます==

 遠くからでもはっきりと見ることができました。試しに地図で調べてみると、千尋岩は等高線が狭くなっていて急であることがよくわかりました。このような岩の形は本州ではあまり見られないもののように思います。
小笠原諸島は、火山が隆起してできた島で、一度も大陸と陸続きになったことがない「海洋島」です。ではこうした島の生き物は、どのようにして島々にたどり着いたのでしょうか。

あるものは海流に乗って運ばれ、あるものは風によっ て運ばれ、翼をもつものは自力で、あるいはそれに紛れて、三つのW、Wave(波)、Wind(風)、Wing(翼)によって、海を越えて小笠原の島々にたどり着き、環境に適応 したものだけが生き残ることができました。

さらに、人 が島に住むようになり、いろいろなものが持ち込まれま した。小笠原諸島は、二〇一一年に世界自然遺産に登録され、多様な自然を見たいと関心を持つ人が増えました。絶滅の危機にある固有種も多い小笠原諸島の自然を守るために、地元の人々や、研究者、ボランティアなどの多くの人々の地道な努力が続けられていることを忘れないでおきたいです。
さて、小笠原の海岸では夕日が沈むときに運がよいと見ることができる有名な「グリーンフラッシュ」があります。グリーンフラッシュとは太陽が一瞬、緑色に見える現象です。日没時や日の出時の二秒から三秒だけ見られるとても貴重な光景です。そして、遭遇する確率は父島が日本で最も高いそうです。父島でそれを見た瞬間は、水平線から緑の光が出てくるような感じがして、とても美しい光景でした。
次に小笠原の文化や歴史について紹介します。
まずは、小笠原に伝えられ、「東京都指定無形民俗文化財」に指定されている南洋踊りです。南洋踊り保存会の方々が、衣装をつけて、南洋群島の様々な島の歌と踊りを「レフト、ライト、レフト、ライト」とかけ声をかけながら、細長い木製タマナ(テリハボク)の打楽器であるカカが刻むリズムに合わせて、左右に足を出しながら披露してくださいました。この踊りは「ウラメ」、「夜明け前」、「ウワドロ」、「ギダイ」、「アフタイラン」という五つの曲からなっています。これは、大正末期から昭和初期に南洋諸島へ出かけたジョサイア・ゴンザレスによって伝えられたといわれています。私は保存会の方々に南洋踊りの踊り方を教えていただきました。初めて踊った時にはテンポがわからず、難しく感じましたが、だんだんとリズムや繰り返しの部分がわかってくるにつれ、少しずつできるようになりました。
また、小笠原は、島の食材を使った料理と多様な食文化があります。父島に到着した日の昼食に島の郷土料理である島寿司をいただきました。
この他にも、島で作られたシカクマメや島オクラなどの新鮮な野菜や果物、海の幸を使ったおいしい料理をいただくことができました。他にウミガメ料理もあります。煮込み料理など、あらゆる部位を使って料理をしていると現地の方に聞きました。昔は小笠原諸島の人々にとって、ウミガメは貴重な食糧の一つであり、今日まで、小笠原諸島の郷土料理として食べられ、食文化として伝えられています。
今回の旅行では、小笠原諸島戦没者追悼之碑を訪れました。その他に行く先々で戦災の跡が見られ、この地での歴史について考える機会になりました。
「小笠原諸島戦没者追悼之碑」は、硫黄島を含めた小     笠原諸島全体で亡くなった約二万四千名の戦没者の御霊を鎮める場所になっています。この碑は、沖ノ鳥島以外の主要な島から集められた石やサンゴを使って建てられたそうです。父島に到着した日に、この碑の前で、戦争で亡くなった多くの人々のことを想いながらお花をお供えしました。
追悼之碑を後にして、「小笠原村ビターセンター」を訪ねました。センターには、島で見られる自然や文化のほか、島の生い立ち、開拓や戦争の歴史についてのパネルや展示があり、様々なことを学ぶ機会になりました。戦時中、父島には軍の要塞が築かれたということを聞きました。その後、実際に山を登ったときには軍の通信所や車両、発電機の一部を目にしました。また、海面上には座礁した貨物船「濱江丸」の一部が見えました。このようにして、ビジターセンターを見学し、島の中を歩き、案内してくださった方々のお話を聞きながら、戦争のことを学び、当時の島の人々の暮らしを考えることは大事なことだと思いました。
そして、滞在四日目には、日帰りで母島を訪れました。その旅をお伝えします。(いちいち言わなくても大丈夫ですよ。お伝えしてくれると思って読んでるからさ)

朝の七時半に二見港を出航した船「ははじま丸」が南下すると、海上にはたくさんのカツオドリが飛び交うようになり、約二時間後には母島の沖港に到着しました。ここも父島と同様に、船を降りたときにはマットで靴の泥などを落としました。(そっかそっか)

初めて行ったのは、東京都道として最も南にある「都道最南端」の南崎です。ここでも、外来種を持ち込まないようにするために、再度靴底の土などをよく落として(なるほど土を落とすのには意味があるのですね!泥にこだわってた理由に素直に納得できました)から、タコノキやオガサワラビロウが茂る遊歩道を歩きました。固有種の小さなカタツムリをたくさん見ることができ、母島の生物相にも関心を持ちました。その後に果樹農家を訪ねて、マンゴーを摘み、生産用のパッションフルーツのさし木をするなどしました。引き続き案内してくださった畑では、島オクラやシカクマメなどの島野菜の栽培のお話を伺い、島の環境に適した野菜の大切さを知る機会になりました。
戦前からの暮らしを伝えるロース記念館では、写真や地図を始め、タコの葉細工や甘庶圧搾機の模型などを見ることができました。記念館を造るのに用いられたロース石は、母島特産の加工しやすい石材で、記念館の近くには、以前使われていた石切場がありました。
五時間半ほどの滞在はあっという間にすぎ、「ははじま丸」が停泊する港に戻る時間になりました。子どもたちが打楽器のカカを鳴らし、大鯨と小鯨ののぼり旗を掲げる島の人たちが、父島に向かう私たちの船を見送ってくれました。そして最後には、訪ねた農家の方が海に飛び込み、手を振って見送ってくださり、私たちは感謝の気持ちをこめながら、いつまでも手をふり続けました。母島を歩きながら、緑深い自然にふれ、人々の暮らしとあたたかさを感じる思い出に残る時間を過ごすことができました。
最後に、私が見た島の生活について触れてみたいと思います。
父島に下船してすぐ、店に行ったとき、野菜が並べられているはずの棚に野菜がほとんどなくなっていることに気がつきました。そのとき、おがさわら丸に乗船中、船尾に積まれている緑色や白色の大きなコンテナに、島
で暮らす人々の生活を支える食料品などが入っていると教えていただいたことを思い出しました。夕方、再度店を訪ねたところ、棚には食料品が補充され、改めて竹芝桟橋と二見港を結ぶ定期運航便が島の人たちの生活を支     えていることを実感しました。
台風が多く通過する小笠原諸島は、台風情報が入ると、家の雨戸をしっかりと締め、雨戸がない窓は板などで保護し、学校も台風の状況によって休校となり、家の中で、普段できない話などをして過ごすそうです。
台風が通過するときは、「おがさわら丸」も出航できないので食料品は島に届かず、生活が不便だと思いますが、その一方で、台風がこないことも、自然に大きな影響を与えるそうです。今年は、七月、八月と台風が小笠原諸島に接近しなかったので、海水温の高い状態が続き、サンゴが白化しているとの話を聞きました。また、適度な強さの台風がくることによって、海水がかき回され、外洋の海水と入れ替えが行われ、海水温が下がることは、サンゴにとっていいことであると海を案内してくださった方が話してくださいました。
サンゴ礁は、海の中で最も多くの生き物がすむと言われるとともに、漁業が営まれ、人々に食糧を提供しています。また、サンゴ礁が育つ海は美しく、旅行者を引きつける観光資源でもあります。地球温暖化が進む中で、このように人々の生活とも関わりが深いサンゴを守っていくことは生き物と文化の多様性を維持していく上でも大切なことだと思います。
五日間の滞在を終え、最後に小笠原の港を出発する前、お世話になった島の方々にお礼とお別れの挨拶をしたところ、お花の首飾りであるレイをかけてくださいました。これは小笠原の風習で、訪れた人が帰るときによく行っているそうです。
いただいたきれいなレイとともに乗船した私は、急いで自分の部屋に荷物を下ろすと、デッキへと向かいました。埠頭を見ると、海や山を案内してくださった方々、宿泊先でおいしいお料理を作ってくださった方などの姿が見えました。
船が出航するときに、私たちは互いに手をふり、別れを惜しみました。
乗船前に島の人から、「もし、また島に戻りたいと思ったときには、レイを海に投げてください。」
と言われていたので、また小笠原に来たいと思った私と母は、いただいたレイを首から外して海に投げました。
私たちが乗っている「おがさわら丸」の横を「見送り船」が途中まで来てくれたことも忘れられない思い出です。(へえええそんな風習があるのか!)  そして、次々と船人が飛び込む姿も感動的でした。(??なんで飛び込むの?)島の人々のあたたかさが最後まで感じられ、私は父島や見送り船の姿が見えなくなっても、しばらくの間、小笠原の方を見続けていました。
小笠原諸島を訪れてからこの夏で三年が経ちました。この間、島でお世話になった方々が幾度か私の家を訪ねてきてくださり、思い出話に花を咲かせたり南洋踊りを一緒に踊ったりしました。


世界でCOVID19が拡大している今、島の人たちはどうしているのでしょうか。そう思った私は、夏休み 中、小笠原でお世話になった方々と、久しぶりにオンラインでお話をすることにしました。画面の向こうから、 このような時期でサービス業は大変であるが、みんな元 気で過ごしていると話していました。そして、普段は観 光客を迎え、案内することに忙しかったのが、この春は 観光客が減ったため、家族とゆっくりと過ごすことがで きたこと、また、この機会に新作の料理を考えたことな ど、思い思いに話してくださいました。

報道によると、小笠原諸島の父島も母島もCOVID19の感染者を受け入れられる医療体制が整っていないことから、「おがさわら丸」の乗船前の検査実施を決めた とのことです。八月十一日から、竹芝客船ターミナルか ら小笠原諸島に向かう定期船の全乗客を対象に、PCR 検査を無料で行う対策をしているようです。ひとたび島 内に感染者が出てしまうと離島である小笠原は大変なこ とになってしまいます。そのようなことが起きないよう、また乗船客と村人の健康を守るためにも大事な対応だと思いました。
今はまだCOVID-19により日本、そして、世界は非常に厳しい状況にあります。いつ収束するのかは予 測が難しいですが、この感染症が収まったら、三年前の ときには仕事で行けなかった父も一緒に、ぜひ小笠原諸 島を再訪したいと思っています。

 

二〇二〇年八月下旬

 

〈参考文献〉

小笠原諸島返還50周年記念誌『原色 小笠原の魂―The spirit of Ogasawara Islands』小笠原諸島返還50周年記念事業実行委員会 二〇一八

NEW!!
私が加えました!

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ちなみになんですが、こちらの冊子、最初に講評があります。

那須正幹先生にはがっかりでしたよ。。。
ズッコケ三人組好きだったのに…

もう一つの佳作は『小笠原諸島を訪ねて』という家族 旅行の記録だが、東京の港を船で出発し、四日間の行程 を丁寧に描き、それぞれの新鮮な感動も素直に記録していた。特に島を離れるおりに島民たちが、次々海に飛び 込み別れを惜しむ場面など感動的だった。作者の興味は 小笠原諸島の自然や歴史、民俗風習にもおよび、紀行文のお手本のような作品だった。

絶対感動してないでしょ笑
そしてその紀行文はお手本の丸写しだったというオチ

最相葉月さんも無難なコメントをする中
リリー・フランキーさん!!

佳作「小笠原諸島を訪ねて」は文章として完成されていてすばらしいと思いました。 一人の中学生だと考えると、もう少しプライベートな事が書かれていると良いと思いました 。

私もそう思いました。こんな、ほとんど「私」が出てこない作品、誰が書いても同じ。
無難なコメントが並ぶ中、リリーフランキーさんの意地を見た気がしました。

あと、まだ時間がある方は、ぜひ中学生の部大賞の『葬儀のススメ』を読んで欲しいです!テンポがよく、イキイキとして、すごく面白かった。

これ読んだ直後に小笠原紀行文(一部パクリ)を読むと、残念感が増すと思いますが…
まぁ単体で読むと、勉強になる部分もありました。靴の泥とか。でもそれもパクリだと知るとね。。。

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