「川柳句会こんとん」第2期メンバー発表

1 選後感


川柳は「誰が作っても一緒」だし、そうであってほしいという思いが私にははっきりとありましたが、どうやら違うようです。

第1回「川柳句会こんとん」大賞発表など

第1回「川柳句会こんとん」の選後感を読んで、なんて当たり前のことを世紀の大発見かのように言っているのだろうとびっくりした。

2022年は「『川柳は誰が作っても一緒』ではない」という思いを深めた一年だったと言える。 川柳句集『ふりょの星』の出版、『Ladies and』や『くちびるにウエハース』、『海亀のテント』といった2022年出版の句集を読み、それについて語る機会がたびたびあったこと、ゆにここカルチャースクールでの講師の経験、そして「川柳句会こんとん」を一年続けたこと。 これらすべてのことが、私の川柳に対する考え方を変化させつづけた。

私はもう川柳は書き手の内面をある程度映し出すものだと知っているし、「川柳に向いている人」もいると思うから、そう思っていないかのように振る舞うことはできない。

包丁研ぎ屋は包丁を見ればその人の性格がわかるという。それと同じように、私は川柳を読めばその人がなにを考えているかわかる。 わかりやすい例を挙げれば、『Ladies and』を読んでフェミニストが書いたものだと思わない人はいないだろう。結果的に、わたしは『ふりょの星』に自分がどういう人間であるかを教えられたとも思う。

ほかならぬ自分が「川柳に向いている人」だったということを認めたのも、2022年の大きな変化だった。傲慢なようだけど、これは講師を務めてみて得た反省でもある。 講師になってみるまでは、「短歌にも俳句にも向いていなかった私ができたということは、川柳は誰にでもできるんだ」と本気で思っていた。「自分はたまたまみんなより早く川柳を始めていただけで、あとはみんなと同じ」という態度で講座に臨んでいた。そのことが、〈教える-教えられる〉の関係においては混乱を招いてしまった。経験や知識量や技術において「みんなと同じ」ではないからわざわざお金を払って講座を受講してもらっているんだということがわかっていなかった。2017年に川柳に出会い、その時点で川柳に全ベットすることを決めたことも、「たまたまみんなより早く川柳を始めていた」以上の意味があるんだと思う。

それでも「川柳に向いている人」と書き、「川柳が上手い人」と書かないのは、「(わたしが思う)川柳に向いている人」が必ずしも「(みんなが思う)川柳が上手い人」ではないからだ。 世に言う「川柳の良さ」のなかには私には感知できない領域があるし(これは誰にでもどのジャンルでもあるんだろうし、だから新人賞の審査員って何人かいるのか、と思ったりもした。「川柳句会こんとん」は新人賞ではなく、私が一年間一緒に作品を発表したい人を選ぶ場だからいいんだけど)、私が思う「川柳の良さ」のなかには、場所が違えばまったく認められないものもある。簡単に言えば、いけフリをひっさげて出ていっても通用しない句会があるということだ。

だから「自分のパーティー会場を見つけなきゃね」(注1)といいたい。 今回も「川柳句会こんとん」をきっかけに「川柳句会ビー面」や「川柳諸島がらぱごす」のような運動が生まれることを無責任に願っている。ササキリさん・西脇さん両氏によって「川柳の場」を作るノウハウが共有されていることも私を楽観的にした。「川柳句会こんとん」第2回のスプレッドシートに欄を作っておいたので、氏名や連絡先(TwitterIDやメールアドレスなど)を書いてもらえると相互に連絡が取りやすくていいと思う。

「川柳句会こんとん」第2回は、私が素直にこの人の句をたくさん読みたいと思った人を選んだ。
「川柳句会こんとん」が、あなたたちの快適なパーティー会場になるようにつとめます。

(注1)2023年3月23日にジュンク堂池袋本店で行われた「私たちが書くことを続ける理由」で安達茉莉子さんが紹介していた、ご友人の俳句ジョージさんの最高な発言。

2 大賞(「川柳句会こんとん」第2期メンバー)

参加者番号9
参加者番号23

「月報こんとん」で一年間一緒に作品を発表していただくのは上記のお二方に決まりました。お手すきの際に暮田にTwitterのDMまたはメール(kuredamana@gmail.com)でご連絡ください。原稿料のお支払い方法についてご相談させていただきます(銀行振込、PayPay、Amazonギフト券のなかから選べます)。

3 大賞作品の選評

参加者番号9

息継ぎする度襲名しちゃう
有袋類に歌詞をつけちゃう
あがる火の手を指名していた
新しい顔をもらってから長雨

二つの要素をぶつけるというやり方で書かれた句でも、散漫な印象を与えるものとそうでないものの間には明確な違いがある。「息継ぎするたび襲名しちゃう」を読めば、作者が緊密に言葉を扱っていることがわかる。それはこの句の二つの要素、「息継ぎ」と「襲名」のあいだに関連があるからで、このように書かれてみれば、このように書かれないと決して気がつかなかったが、息継ぎと襲名はすこしだけ似ているのだ。息継ぎをして水に顔をつけている時間が、一人の人間が先人の名を継いで(!)活動する期間に相当するとイメージすればいいだろうか。しかし「襲名」は「息継ぎ」ほど頻繁に行われるものではないので、「襲名」の持つ権威性、厳かなかんじが踏みにじられている。そのことに喜びを覚える。
「有袋類に歌詞をつけちゃう」では、二つの要素の関連は少しわかりにくい。というか、わからない。そこで「つけちゃう」という語尾がいきてくるのだと思う。通常、歌詞をつけることができるのは「音楽」であるはずで、生き物に歌詞をつけることはできない。でも「つけちゃう」。このわがままさに痺れる。この「つけちゃう」と並べると、「息継ぎする度襲名しちゃう」の「しちゃう」は自分の意に反してしてしまうかんじがある。それもまたかっこいい(人間のルールが通用しない強キャラっぽくて)。
「あがる火の手を指名していた」は「火の手があがる」という慣用句を下敷きにしているのだろう。そのうえに生徒が挙手し、教師が指名をするというイメージを重ね合わせている。さらに火の「手」、「指」名と身体のパーツをいくつも使用することで、「単に慣用句をつかった句」にとどまらず、火災現場を舞台に言葉が万華鏡のように広がっていく。
「新しい顔をもらってから長雨」の評は後述。

参加賞番号23

かぎ穴にちょっといちごがつまってる
ぼくレインコートはぜんぶ愛してる
ポータブルじゃないと認めたくないな
雨あがる むこうの家は空き家だろ
キッチンに桜がないと思うなら

ほとんど一読で「この人だ」と思ったけど、なぜそう思ったのかは自分でもよく分からない。良さが説明しにくい=評が書きにくいのだ。そんなことを言っていても仕方がないのでがんばって書きますが、「かぎ穴にちょっといちごがつまってる」「ぼくレインコートはぜんぶ愛してる」は、ひらがなの使い方が上手い。「鍵穴にちょっと苺が詰まってる」「僕レインコートは全部愛してる」だったら、魅力が半減したと思う。鍵穴に詰まっているいちごは潰れているだろうし、鍵を挿そうとしたらぐにゃりと出てくるかもしれないけど、そのいちごの柔らかさ、生理的に嫌なかんじがひらがなによってよく表わされている。レインコートの句も同様、この見境のない幼さが漢字だと消えてしまう。
「ポータブルじゃないと認めたくないな」の評は後述。
「雨あがる むこうの家は空き家だろ」では、雨があがる=雨雲が去るという現象と、空き家=住人が去った家のイメージが重ねられることで、いっしゅん家のなかに雨が降っていたかのような、住人が雨であったかのような幻がみえる。
「キッチンに桜がないと思うなら」。「キッチンに桜がない」。思ったことこそないが、思ったと言えば家のなかに桜を生やしてしまいそう。この縦横無尽さに惹かれる。

4 第2回「川柳句会こんとん」から10句

1 ひとへに観覧車を追つてゐる
3 思い出があったら丘に登りたい
9 新しい顔をもらってから長雨
11 青い狸がドラえもんに見えるもんか
12 足し算は蛍を見ながら間違える
13 参加賞!参加賞!とのことでした
15 飴の残りも誰かの夢に
19 わたしのことですがわたしがいません
20 その鍵とおそろいのでこぼこがいい
23 ポータブルじゃないと認めたくないな

1 ひとへに観覧車を追つてゐる

この作者はほとんどの句を旧仮名で書いていて、「柳」や「恋文」という単語のチョイスからも「昔っぽいのが好きなのかな?」と思った。旧仮名はやや書き言葉アレルギーの私にはプラスに作用することはなかったけど、この句に関しては旧仮名が効果を発揮していると思った。観覧車は動かないから、「観覧車を追う」というのは変だけど、「追つてゐる」と書かれるとなんだか読み方がスローモーションになって、観覧車との追いかけっこが成立するみたい。

3 思い出があったら丘に登りたい

「思い出」はあるかないかのどちらかで、「思い出があったら」なんて言葉の使い方は通常はしない。人が丘に登るのは「思い出があるから」か、「思い出を作りにいくため」であって、ここでは奇妙な転倒が起こっている。「思い出があったら丘に登りたい」というこの人は、本当に丘に登りたいのだろうか。「思い出」という言葉をフックに人を立ち止まらせる良い句。

9 新しい顔をもらってから長雨

私の脳は「新しい顔」といわれると自動的にアンパンマンを想起する仕組みになっているが、雨が降っていたら「顔が濡れて力が出ない」状態になってしまう。アンパンマンだとしてもなぜなかなか出動できないアンパンマンになりかわって句を作ろうとしたのかわからなくておもしろいけど、もちろんアンパンマン読みをしなくてもいい。「たった一人の顔」を求める短歌に対して、新しい顔をいくつでももらえるのが川柳だろう。

11 青い狸がドラえもんに見えるもんか

川柳人のドラえもん好きは不思議なほどで、「ドラえもん 青」で脳に検索をかけただけでも以下のような句が次々と出てくる。

ドラえもんの青を探しにゆきませんか/石田柊馬
偽物のドラえもんかな薄い青/竹井紫乙
ドラえもん右半身が青色の/川合大祐

かくいう私もドラえもんの漫画を読んで言葉を覚えたので、ドラえもんが作中でどんな扱いを受けているかはよく知っている。ドラえもんはもともとねこ型のロボットだったのだが、たしか昼寝をしている間にねずみにねこ耳部分をかじられてしまい、いまのつるんとした頭のフォルムになったのだ。そしてひんぱんにたぬきに間違われ、そのたびに憤慨している。考えてみれば不思議である。たぬきにも耳らしきものはあるし、たぬきは青くない(ドラえもんが青いわけは、たしか耳がなくなってしまったのが悲しくて三日三晩泣いたからだ)。しかしこの句が異議申し立てをしているのは、 「ドラえもんが青い狸に見えるもんか」ではなく、「青い狸がドラえもんに見えるもんか」なのだ。ここでは「青い狸」という存在しない生き物がいちど存在するかのように扱われることによって、かえって「存在しなさ」を確かにするということが起こっていると思う。ドラえもん川柳史に新たなページが刻まれた。

12 足し算は蛍を見ながら間違える

足し算のような複雑でむずかしいことをしている間によそ見をしてはいけない。間違いがゆるされない計算のあいだでも光るきれいなものがあれば見てしまう、この集中力のなさがまさに川柳の美質だと思う。

手は鳥の夢見てお釣り間違える/倉本朝世

13 参加賞!参加賞!とのことでした

最初から気になる句で、なぜ気になるのか考えてみると、いちおう私が人の句を選定するレースである「川柳句会こんとん」という場にこの句があることがメタ的でおもしろいような気がした。

15 飴の残りも誰かの夢に

「飴の残り」 は個包装の飴がいくつか余っていると読むことも、口のなかでとけた飴と読むこともできるけど、私は後者を採った。とけた飴は口から出してしまえばごみだが、そのごみを「誰かの夢に」斡旋する生き物がいるらしい。端正にまとまったうつくしい句だ。

19 わたしのことですがわたしがいません

「わたしがいません」という自己申告が目に留まった。自分が不在で自分のことが議論される、あるいは決められる。ある種の子供が被っている災厄はこの類のものだろう。17音にむりやりおさめる6字・7字・4字の歪なリズムが不自由な内容と合っている。

20 その鍵とおそろいのでこぼこがいい

この作者の句では「起きて寝てわたしってねえ実話かな」も良くて、どちらを取り上げるか迷った。この句は発話者が鍵と同じでこぼこになろうとしていると読むととてもおもしろいが、「おそろいのでこぼこの鍵」=合鍵を欲しがっていると読むとおもしろくなくなる。一つの句をいかようにも読むことができるとき、読者の倫理観が問われる。私は川柳が常に現実にはありえない方を願い続けることを望む。

23 ポータブルじゃないと認めたくないな

この気難しさ。ポータブル(=持ち運び可能)ではないような大きなもの? 電源から離れると使えなくなってしまうもの? をポータブルではないと認めない=持ち運び可能であると信じることで困るのは自分でしょう、と思う。私はこの作者が書く川柳の聞き分けのない子供のようなところを良いと感じているようだ。

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