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『Fateシリーズ』=他者幸福

「好きな人たちが幸せならそれでいいや」と思うことってありませんか?私はあります。今、それです。
自分が幸せでなくても、とりあえずは自分の周りの、手の届く範囲での身近な「好きな人たち」が幸せでいてくれたらまあなんか、それでいいかなあ…と最近思うようになりました。
勿論自分自身が幸福になれたら、それ以上のことはありません。私も本当はそれを望みたいよー。でも、もう自分自身を「幸せ」にするために必要な行動も、思考も、活力も、全てが足りないのです。疲れちゃったなー。だから、とりあえずはまあ「周りが幸せならそれでいいや!」と思っていますよ私は。
でもそれって、結局は自分自身から逃げて他者に自分の勝手な思想を託して、勝手に救いを求めているということになりませんか?結局エゴなのかなあ〜。
それこそ救いようのない「偽善者」に成り下がってしまうような気がして、この思考は割と危険なのかもしれないと思います。勿論、他者の幸せを心から願うことが出来るというのは美徳ではありますけれどもね。それが行き過ぎると、ただの「偽善者」「エゴイスト」になってしまうなあ…と思い直しました。





…さて、そこで私のオタク語りを少々…失礼しますね…。(?)
「エゴイスト」で思いつくのは、『Fateシリーズ』の主人公である『衛宮士郎』です。
私は、アニメや漫画はそれなりに観る・読む方ですが好きなジャンルは大抵「命の重さ」について考えさせられるような話のものが多いです。(ガンダムとか、コードギアスとか、蒼穹のファフナーとか。)
『Fateシリーズ』は私が大大大好きなジャンルのひとつで、自分の学生の頃のオタク人生においてかなり大きな割合を占めていました。その中でも特に好きだったキャラクターが『クー・フーリン』と『衛宮士郎』の二人です。
『クー・フーリン』とは、Fateシリーズに登場するサーヴァントのことです。「ケルト神話」「アルスター神話」から派生して作られたキャラクターです。(クー・フーリンという方は実在していました)

第五次聖杯戦争にて召喚されたランサーの真名。
『Fate/stay night』ではランサーとして召喚されているものの、ルーン魔術のスキルと戦闘時の荒々しさを伝える逸話から、他のクラスに対しての適性も持つ。他作品ではランサー以外にもバーサーカー・キャスター・セイバーのクラスで登場している。

ちなみに作中でたびたび使われている『光の御子』という通称はFateシリーズオリジナルのもので、一般的には『クランの猛犬』や『アルスターの猛犬』という呼び名がメジャー。

ピクシブ百科事典より引用

とにかくもう、超、かっこいいのです!大好き!
私の推し語りはそこそこ長くなってしまうので割愛しますが、『Fateシリーズ』の中でも私が特に好きな作品は『Fate/Heaven's_Feel』です。『Fateシリーズ』はかなりややこしいのでかなり割愛しますが、原作は元々成人向けのノベルゲームです。

アニメ化作品としては、原作ゲームにおいてセイバーをヒロインとしたルート[Fate]を軸にスタジオディーンが制作した『Fate/stay night』(2006年版)、
同じくスタジオディーン制作による遠坂凛ルート [Unlimited Blade Works] の劇場版『Fate / stay night - UNLIMITED BLADE WORKS』。

そしてufotable制作の遠坂凛ルートとなるTVアニメ『Fate/stay night [Unlimited Blade Works] 』、間桐桜ルート[Heaven's Feel] の劇場版『Fate/stay night [Heaven's Feel]』3部作が存在しています。

animate Timesより引用

…と、初見の方にはかなり混乱させてしまうことになるのでここらへんはなんとなーくで大丈夫です。
つまり、『Fate/Heaven's_Feel』は『間桐桜√』ということだけ理解しておいて頂ければ…。
私は間桐桜ちゃんも大好きです。一部のファンの方からは『メンヘラ』と言われることも多いのでそこだけ切り取られるとちょっとしょんぼりしてしまいますが…。
ここでその、私が大好きな衛宮士郎が出ててきます。衛宮士郎は所謂このゲームにおいての主人公で、ギャルゲー的な立ち位置で言えばプレイヤー側です。そこでまず、衛宮士郎の有名なセリフを貼っておきます。

「だって、〝誰かの為になりたい〟っていう思いが、間違えのはずがないんだからな」

ピクシブ百科事典より引用

……この時点で、なんとなくわかりませんか!?(うるさい)
そう、衛宮士郎は生粋の『エゴイスト』なんです。(私はそうだと思っています)
衛宮士郎は、他人のために自分の身を投げ打つことができます。そしてその対象が、主にこのゲームの攻略対象である三人に向けられます。ですが、『間桐桜√』だけは少し他の二人とは異なる点があります。

『間桐桜√』は、間桐桜救済√ということです。

他の二人の√での衛宮士郎は、世界と共に攻略対象を救おうとします
どちらも助けて、攻略対象キャラも自分も世界も幸せにする。

でもそんなことって、可能なんでしょうか?土台無理な話です。でもそれを、『間桐桜√』以外の√で衛宮士郎はなんとかしてやってのけます。心身ともにボロボロになりながら。その過程にも凄く凄く惹かれる部分はありますし、大好きな展開です。
でも、『間桐桜√』では世界を捨てて、間桐桜という一人の少女のみを救おうとします。
…その時の自分は、ゲームをプレイしながら痺れ散らかしていました。
「とんでもねえエゴイストだ!!!」と頭を抱えましたね。でも、そのエゴさ加減が私は大好きです。プレイしながら「そんな調子の良い話があるかい」とも思いましたし、自分が全てを救えると思ってしまっている部分も非常に愚かしくて、良いですね。自己欺瞞とでも言うんでしょうか。
そういう人間の奥の生々しさ、グロテスクさを惜しげも無く吐露して満身創痍になってぐちゃぐちゃになりながらも、最後の最後まで足掻き続ける所が、私は大好きです!!

推し語りをしてしまいましたが、気になる方はぜひ『Fateシリーズ』をどうぞよろしくお願いします。神作品です。

かなり話が脱線してしまいましたが、『他者の幸福を願う』ということは、そういうことだなあと思ってしまいます。勿論それが、自分の幸福を考えた上での話なら良いのですが…「自分が幸福になる」というプロセスを棚に上げ、「自分の分まで幸せでいてくれよ!」というのはただの自己欺瞞だよなあ、と思います。つらつら語っていますが、多分これは当たり前のことですね。
今自分がその思考に陥っていること、それ自体が凄く悲しいなあと思います。(他人事?)私の分まで、私の好きな人たちが全員幸せでいてくれたら、その時こそ自分は悔いなく死ねるなと思いますね。勿論、自身の幸福が叶わないことへの後悔、悲しみはありますが!ありますが、
それでもまあ、なんか…良いかな〜〜もう!!
という気持ちになってしまうわけです。(これって思考放棄?)
勿論あくまで、自分の手の届く範囲での範疇です。関係ない人は正直どうでもいいので…。

まあとにかく、この文章には特にオチも何もないわけですが。

私は最近、まいにちまいにち「好きな人たちが幸福でいてくれる世界線」を見出して、それが叶った時には満足して死ねるなあとひとり、仕事帰りの帰宅中の道すがら、しみじみと思うわけです。
私が常日頃抱えている、膨大な諦念感と虚無感、希死念慮を赤子のように優しく抱えつつ、その赤子のような感情達が大人に育ってしまった時、私は本当に本当に世界から居なくなってしまうと思います。


夏が終わってしまったら、私は一体どうなっていくんでしょうか。

自己の幸せを少しでも願えるように なりたいです。

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