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「中島敦」論 「母と子」--母子関係にみる中島文学の原点

概要

格調高雅な文体で知られる中島敦。その母子関係を紐解くことにより、中島文学の原点を探ることを試みる。


 先日、大学生活が始まった筆者は、海外文芸史という授業を受けた。その回は「中島敦」が主題であったが、筆者はその中でいくつか考えたことがあるので、ここに記しておく。

中島敦とはどのような人物か?

 中島敦(1909-1942)は、「山月記」、「李陵」などの作品で知られる作家であり、日本において、格調高雅な漢文体を確立した。現代では高校国語の教科書にも採用されており、その文体の独自性がうかがわれる。
 ご存じのことかと思うが、彼の人生は決して「売れっ子小説家」のような、華々しいものではなかった。彼は代々漢学者の家に生まれたが、当時は西洋化とともに、漢学は冷遇されており、一家の暮らしは豊かなものではなかったという。さらに、生まれた翌年に両親が離婚した上、教師であった父親は高給を求めて各地を転々とし、最終的に京城(現在のソウル)に落ち着くまで何度も転校を繰り返した。
 京城の中学校を卒業したのち、彼は第一高等学校に入学。病で一年の休学を余儀なくされるが、卒後は東京帝国大学文学部国文科へ進学した。しかし、この病により体が弱ってしまい、それ以来喘息の宿痾に悩まされることとなる。
 そして大学を卒業し、大学院へ進んだ中島だが、不況のため仕事もなかなか見つからず、最終的に父の斡旋で横浜高等女学校の教師として勤務することとなった。教員時代には喘息に苦しむと同時に、人生などについて哲学的な疑問を持つようになる。
 その後教員を辞め、1941年には南洋庁の職員として単身赴任をする。この時残していった原稿が文學界に掲載され芥川賞候補となるなどした。
 南洋庁職員を辞した後、創作に熱量を傾け、「名人伝」などの名作を書き上げるが、喘息の悪化を招き、1942年に夭折した。享年33歳。

母子関係にみる中島文学

 以上のように、中島敦の人生は壮絶なものであり、大きなポテンシャルを秘めたまま夭逝してしまった作家である。ここでは、その母子関係から、中島文学について掘り下げていきたい。
 中島にとって、母は「三人」いる。一人目は生みの母で、二人目は父の再婚相手(妹を出産する際に死別)、もう一人の母は『ぜいたくで虚栄心が強』い、『学者や教師の妻たる人ではなかった』という(『』部は折原澄子「兄と私」より)。筆者が考えるに、中島文学にはこの体験が大きく影響していると思う。つまり、中島にとって「すべてを無条件に肯定する」母親という存在が欠落していて、それが彼の「孤独」を招いたのではないか?ということである。
 そもそも母親とは家族というシステムにおいて、子に対し保護と承認を与える存在だ。しかし、これが中島の「家族」には欠けており、この結果、父親の「威厳」や「プレッシャー」にのみ晒され、彼の精神を苦しめていた。これは彼が深く他者と交わろうとしなかったことにもつながるし、人生に対して思索を深める方向に向かってしまった原因でもあろう。中島の友人、釘本久春は、「敦のこと」という文章の中で中島の言葉を引用している。『(継母に苦しめられた経験について)いじめられるのが辛いというばかりじゃない。(中略)ただ、自分をいじめるとき、その母が、ヒステリーで滅茶苦茶になるのをみるのが、とても辛かった。その人間喪失ぶりを見るのがこたえた』と。このように、中島は「母」という存在の不在から、妙に大人びてしまい、うまく甘えることができなくなってしまったのではなかろうか。中島文学は母親の不在というものが大きな一要素となっているのである。

結論 中島文学の原点とは?

 以上、多少駆け足であったが中島の人生とその文学の背景について概観してみた。これまでのことを踏まえると、「家族」というシステムの機能不全が彼の文学の原点と言えるのではないか。彼は孤独で、しかし、その孤独の中に癒しと保護を希求していた作家なのである。もしかしたら、彼にとって文学とは癒しと保護を提供するものだったのかもしれない。
 さて、これを以って本稿の結びとし、結論としたい。

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