「他者を前提とした感想。コミュニケーションを前提とした感想。感想の過大評価。」について ~肘樹さんのnoteを読んで~

この文章は下記のnoteに触発されて書きました。私の問題意識として心の中の解像度をいかに上げていくかがあります。しかし、それを外部に発信するということについては今まであまり考えてきませんでした。下記のnoteを読み、改めて考えたので、この文章を書きます。あくまで私による私の感情の整理です。ところどころ文章を引用させていただきます。


肘樹さん「感想のすゝめ」



筆者は肘樹さん。タイトルは「感想のすゝめ」。オタクに感想を書く事を勧め、その効用と方法をわかりやすく書いておられます。
特に面白かった箇所が2か所あります。1つ目は「心を細分化して客観視することで」のくだり。2つ目は「その心の動きこそ『感想によるコミュニケーション』である」のくだりです。1つ目は私の問題意識と重なる部分があります。肘樹さんと私の感想に対する向き合い方の差を見つけることで、私の心の解像度をより上げることができます。
2つ目に関しては、感想に対する私に足りなかった視点です。つまり、個人的な感想と外部との関係性についてです。というか、オタク界隈では2つ目についてはあたりまえに重要視されていることみたいですね。

まずは、私の持っている心の中の解像度をいかに上げていくかという問題意識によせて。
なぜこの問題意識を持っているか。心の動きとは例えば喜怒哀楽などの感情であり、外部の影響で心の内に喚起されます。喜怒哀楽はわかりやすい4つの分類ですが、実際は入り組んでおり、複雑です。「喜」ひとつとっても、強弱や濃淡があり、悲しみとセットで発生することもありますよね。実際の感情は4つ以上存在しますし。自分の感情を詳しく内省し、言語化することを「感情の解像度を上げる」と表現しておきましょう。どのようなコンテンツを受容したら、どんな感情が出力されるのか。言語化とは、外部に向けて発信することだけでなく、心の中にとどめておくことも含みます。

コンテンツを楽しんでいくことにおいて、自らの感情の解像度を上げるのはメリットがあります。つまり自分は何が好きなのかが、わかりやすくなるんですね。何が好きかがわかってくれば、好きなコンテンツの検索性があがり、アクセスがしやすくなります。ひとつのフックがあれば、類似例からより広範なジャンルにも手を伸ばすチャンスが生まれます。私が自らの感情の解像度を上げることを実践しているのは、コンテンツのアクセス性を向上させるためです。

私の言う「感情の解像度を上げる」とは肘樹さんの言う「心を細分化して客観視することで、自分の中の価値観が見いだされていくのである」です。
しかし、私と肘樹さんでは違う観点でメリットを上げておられます。私が肘樹さんの言う「心を細分化して客観視すること」のメリットを自分のためだとしているのに対し、肘樹さんは他者の存在を前提としているんですね。
肘樹さんは、この効用を他者の感想とうまく付き合っていくことだとしています。これに関しては私と肘樹さんの差であるので、面白いと思いました。


他者の存在を前提として感想を発信する。どうやら、当たり前に行われていることのようですね。他者の目を気にしながら感想を書く。感想が他者にどんな影響を与えるのか、逆に他者の感想にどんな影響を受けてしまうか。他人の目があるから、「感想は上手く書かなければならない、上手く書けないから感想を書けない」という感情が生まれ、感想を書くのに二の足を踏んでしまう。肘樹さんはこのような方たちに対し、どうやって感想を書いていけばいいのかという方法をわかりやすく書いておられます。また、感想との付き合い方についても触れられています。

肘樹さんのnoteを読むと、多くの人が感想を発信するということに対して葛藤を抱いているようですね。その様子をみた私の感想を箇条書きするとこうです。
・感想を誰かに読まれる前提で書く必要ある!?という驚き。
・他者の感想でそんなに自分の感情が揺れ動く!?という驚き。
・感想を何か重要なものとでも思っているのか!?という驚き。
という驚き3点セットです。カルチャーショックですね。
感想と他者の関係性に関して、肘樹さんは「感想は、あくまで作品を受けた己の心の動き、感情に誠実であればそれでいい」と太い字で強調しながら断じます。

私もこれには大賛成です。感想がコミュニケーションとして使用され、それにより必要以上に揺れ動いてしまう感情。感想というものを過大評価しているのかもしれませんね。感想が本来の目的とは逸脱した使い方をされていると表現してもいいかもしれません。感想に対する様々な葛藤に苦しむ。
感想が過大評価されている背景には、コンテンツ制作者が身近に可視化されていることがあるのかもしれません。実際にSNSでは作者が作品の感想を求めることがあります。また、「ファンレターがこの作品を延命させます」という言いもあります。これにより感想というものが価値のあるものだと認識されます。また、感想の感想を目にすることが可能になってしまい、なおさら感想を書く事に慎重になります。他人の感想を多く目にすることで、感想の優劣を測ってしまう。
感想と応援がごっちゃになっている面もあるのかもしれませんね。感想を書く事に対して必要以上の責任が伴ってしまう。作品の応援は応援、自分の感想は感想として切り分けるのが大切でしょう。

感想を重要なものだと誤認しているから、他人の感想に対しても敏感になるのかもしれません。他人の感想も自分にとって重要なものだと思ってしまう。だから、それに影響を受けてしまう。重要なものと思わず、自分とは関係ないものだと思ってしまえば、他人の感想は自らにとって些細なものになります。


肘樹さんのnoteを読み、感想を巡る複雑な現状を改めて認識しました。自らの感情を言語化したものが否定されたり、他人と違うことに対して悩んだりすることは苦しいものです。
そもそも感想とは何かを掘り下げて考えることも、必要なのかもしれません。なぜ自分は感想が書けないのか、書きたいけどどうして二の足を踏んでしまうのか。自らの問題点と向き合うことはつらい側面もあります。
私も感想など、自らの心の内をnoteに書いています。ですが、感想そのものに向かうことはありませんでしたので、いい機会でした。



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