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どうして本屋になったんだっけ。

 先日、ある書籍単行本にエッセイを依頼していただいて、書きました。いただいたお題は「なぜ本屋を始めようと思ったのか」。まちがいなくそれは「なぜフラヌール書店を始めたのか」を聞かれているんですが、どうにも文章が湧いてこず、それを書くにはどうしても「そもそもなぜ書店員になったのか」から始めなければ気が済まないことに気づきました。

 で、指定された文字数の倍くらい書いてしまい、その後半部分を書籍用に送って、でも残った前半部分もどうにかしたいよなと思い、ここに上げて供養することにします。

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 フラヌール書店がオープンしたのは1年3ヶ月前、私が46歳のときです。初めて自分が事業のオーナーになるのは大きな転機でしたが、これまでずっと書店に入り浸ってきたし、勤務先や関わり方こそ移り変わってきたけれど書店員の仕事を途切れず続けてきたし、なぜ自分の店を開いたのかといえば、自分と家族のライフステージが変わっても本屋であり続けていくには他に良い方法がなかったから。何か新しいことを始めたというより、原点に帰ってきたという心境です。だから、なぜフラヌール書店を始めたのかという問いに答えるには、なぜ書店員を続けているかをお話しすることがいいように思います。

 本屋って素晴らしいなと初めて思ったのは、1986年ごろ、小学5年生のときです。住んでいた高知市三園町に新刊書店がオープンして、開店キャンペーンの福引をカラカラと回したところ、一等賞の求龍堂『小磯良平パステル素描12葉』を引き当てました。小磯良平が誰なのかも知らなかったけれどとても嬉しくて、ずっと覚えています。本屋とは未知の美しいものと出会わせてくれる場所なのだと強く意識に刷り込まれました。

 その書店はいつの間にか無くなってしまったものの、中学生のときは愛宕町の太平洋書店、高校生のときは高知城の向かいにあった富士書房、大阪の吹田市で予備校生をしていたときには江坂のアシーネ、大学に入って早稲田に住み始めてからはあゆみBOOKS、早稲田の授業がつまらなくて中央大学八王子キャンパスで宗教学者の中沢新一の追っかけをしていたときには野猿街道のブックスいとうに、とにかく学校をサボって本屋でぶらつくのが好きでした。本を読む時間よりも、本棚の背表紙を読む、書店に来ている人たちの様子を見る時間のほうが長かった。それは今も変わりません。

 そんなふうだったので、アパートからいちばん近くて通い慣れたあゆみBOOKS早稲田店でアルバイトを始めるのはとても自然なことでした。それは1996年、大学2年生の頃でした。そこの店長で、後にあゆみBOOKSの社長になる鈴木孝信さんが、私が本屋としていちばん影響を受けた人物です。

 当時、あゆみBOOKS早稲田店は一坪あたりの月商でいえば全国でも片手で数えられるほど上位の繁盛店でした。45坪という小さな空間で、平積みにした本がどの山も飛ぶように売れてどんどん減っていきます。膨大な新刊の中からどの本を選び出して狭い店内の限られた平台に置くのか、その判断がとても重要でした。この本はなんだかわからないけれど売れそうな面をしているという勘、この本に救いを求めるのはこういうタイプの人間だという洞察力、この本を手に取らせる惹句は一言これだという閃きが鈴木さんにはあって、狙いを定めた本は500冊でも1000冊でも仕入れて実際に売ってしまう(当てが外れることもままある)賭博師でした。

 そんな鈴木さんを見て、本屋の仕事はとてもドラマティックでスリルがあるものだと興味を惹かれました。お客様がどんなふうに売場を巡って、何を手にして、最後にどんな本を買うのか、買わずに帰るのかをレジからいつも観察していました。6年半のアルバイト時代、仕入れや売り場づくりを担当することは一度も無くひたすらレジでお会計とブック・カバー折り、またはバックヤードで返品作業、店内の巡回と整理整頓をし続けていました。そういった仕事をつまらないと感じたことはありませんでした。淡々と手を動かすことも好きでしたし、これだけ膨大な本と毎日たくさんのお客様が出会ったりすれ違ったりする様子を見ること自体が面白く、それを眺めながら勝手に物語を空想して楽しんでいました。

 当時おそらく40代になるかならないかくらいだった鈴木さんは、アルバイトの私たちと早稲田駅近くの一休という焼き鳥屋でよくお酒を飲み、そのたびに将来の夢を語っていました。いつか自分の本屋をやる、もう店の名前も決めてある、颯爽堂というんだと。そんな鈴木さんに影響を受けて、私もこのまま本屋になるならいつかは自分が一人で隅々まで好きなように品揃えできる店を持ちたいとぼんやりと思っていました。

 実際には、大学を留年してバイトとバンドに明け暮れていました。そんな日々から何とか脱出してフルタイム書店員になったのは27歳のときで、初めの一年間はそれまでのモラトリアムを挽回しようと、週に五日間は三省堂書店八王子店で契約社員をしつつ二日間はあゆみBOOKS早稲田店でアルバイトという無茶苦茶な働き方をしていました。三省堂では広い売り場の陳列と発注を任せてもらえる。全国チェーンなので膨大な売上データも見ることができる。あゆみBOOKSには他店にはない個性的な売れ筋商品や本に詳しいお客様たちが与えてくれるヒントがある。対照的な二つの店を行き来することは、書店という装置の仕組みと扱い方を理解する上で大きな助けになりました。

 そんな書店二重スパイ時代を一年ほど過ごした後、あゆみBOOKSで正社員になりました。この会社は野武士の集まりというか梁山泊というか、他店の店長たちは皆どこかの書店で武功を積みながらも癖のある性格のためか組織を飛び出して流れ着いたような人ばかりでした。まずはこの先輩たちの技を盗んで実力をつけて認められなければ、自分が店長になる順番は回ってこない。店長になればジャンル担当の分業制を越えた立場で一軒の店の品揃えができるはず。そう考えて、仕事漬けの毎日を送っていました。8年後、36歳のとき、小石川店で念願の店長になりました。

 

私の書店員としての手法は、小石川店で過ごした36歳から39歳の間に出来上がったと思います。お客様の店内での行動パターンや買った本、買わなかった本の組み合わせから連想して「次はこの本が売れるにちがいない」とあたりを付けて陳列し検証する。その仮説と検証を繰り返しました。そんな試みに応えて本を買ってくれるお客様に恵まれ、充実した時期でした。当時のお客様の中には今もフラヌール書店に来てくださる方が何人もいます。

 小石川店時代、あゆみBOOKSは大きく変わりました。学生時代から店長として慕っていた鈴木さんは専務となって経営にあたる傍らで、2009年、会社とは別に自身の書店、颯爽堂を西荻窪に開きました。ついにあのときの夢を実現したのかと我が事のように嬉しく思う一方、決して順調ではなかったあゆみBOOKSの経営を放棄するのではないかと疑ってもいました。2013年には鈴木さんが社長になり、どんな経緯だったのかは知りませんが翌14年に会社は喫茶店のシャノアール・グループの子会社となり、鈴木さんは退社し、翌15年に会社は大手書籍問屋(取次)の日販に買収されました。鈴木さんは颯爽堂の経営に専念することになったものの、同年12月に体調を崩して店を閉めました。

 このドタバタ劇に辟易していたことや、いくつかの理由で、2014年いっぱいで私は会社を離れ、「フリーランス書店員」という肩書きで他書店の実務アドバイザーや選書の仕事を始めました。自分の店をやりたいけれど何の蓄えもない。では、身ひとつで行った先で書店員という専門技能を売りにすることはできるだろうか。そう考えました。

 幸運なことに1年目の2015年から全国のさまざまな書店に呼ばれ、忙しく過ごしていました。その頃に颯爽堂が閉店。知人たちは私が後を継げばいいんじゃないかと言い、私もそうしたいと少しも思わなかったわけではありません。やっぱり自分の店はほしい。でも颯爽堂は大きすぎました。35坪という規模の家賃も、必要な売上も、売るための在庫量や営業時間も、鈴木さんの店という看板も、すべて大きすぎました。とても継承に手を上げるような準備は出来ていないことはすぐにわかりました。在庫を返品して空っぽになっていくお店の前で佇む鈴木さんに何と声をかけていいかわからずに帰った日のことをよく覚えています。

 

神楽坂モノガタリ

同年、私はブックカフェ・神楽坂モノガタリの立ち上げに参加しました。店内の壁面書棚に在庫が3000冊ほどの新刊書店+カフェです。カフェ目的で来店したお客様がうっかり本を買ってしまう、そんな仕掛けを数多く試すことができました。著者を招いたトークイベントを80本ほど開催できたのも大きな経験でした。しかし、カフェのムードから逸脱しない範囲でしか品揃えの幅を広げられないことに物足りなさを感じてもいました。

Pebbles Booksの1階

 2018年には、懐かしい小石川に再び縁があって、書店ペブルズ・ブックスを開業しました。神楽坂モノガタリのオーナー会社が所有している木造二階建ての一軒家を自由に使っていいとのことで、DIYで簡単なリノベーションをし、あゆみBOOKSの閉店した2店舗、綱島店と小石川店から貰い受けた書棚を運び入れました。オーナー会社が書店事業を拡大する、その監修を私が担当するという立て付けでしたが、実質は私ともう一人、あゆみBOOKS時代から一緒に働いていた渡辺くんを呼び寄せて、二人だけで準備を進めました。上下階を合わせて18坪で、一階は児童書や文庫など、二階は芸術書や人文書などを揃えました。親しみやすい品揃えと硬派で挑戦的な品揃えの両立を目指した点で、ペブルズ・ブックスはあゆみBOOKS小石川店の再演でもありフラヌール書店の原型でもありました。

 2021年になると、私はペブルズ・ブックスを渡辺くんに託して、再び書店アドバイザーの仕事をしていました。ペブルズ・ブックスのオーナー会社と方針の食い違いが生じてきたことも、店を離れた一因でした。資金の心配をせずに書店開業を経験できたことを今も感謝しています。しかし、お客様に信頼していただいてそれに対して品揃えでお応えしていく、そういう関係を継続していくためには、運営方針は自分が握っておかなければならないと理解する苦い経験にもなりました。

 この頃アドバイザーとして関わっていたのは、JR東日本グループの書店チェーン、ブックコンパスでした。これまで経験した中で売上も客数ももっとも大きい書店チェーンで、私の選書が物によっては驚くようなスピードで売れていく様子を見ることができました。でも、店内を行き交うお客様の動きや商品の入れ替えペースなど、すベてのスピードがあまりにも速い環境では、魅力を丁寧に伝えて高くても納得して買ってもらう、品揃えをじっくり見て何冊もまとめ買いしてもらうといったことが難しいこともはっきりとわかりました。ゆっくりと静かに書棚と向き合える環境づくりが付加価値となるはずだ、そういう書店を作りたいとあらためて考える機会となりました。

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 このあとは、近いうちに刊行される本屋本の中に、他の多くの本屋さんの文章と一緒に収録される予定です。

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