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【連載小説】無限夜行 二.「夜を待つ人々」

 列車の中は少し冷えていて、篭った空気の匂いがした。目が慣れてくるにつれて、少しずつ中の様子が見えてくる。

 車両連結部分である通路は黄ばんだ裸電球が頼りない光を放っている。飴色になった古い木が各所に使われている車内は、優しいけれどどこか物寂しくもあった。もう取り壊された小学校の旧校舎がこんな感じだったかもしれない。

 兄が手招きする方の車両に入ると、生暖かい風が顔に当たった。天井を見ると、二台の扇風機がゆったりと首を回していた。車両の中もやはり旧校舎のようである。座席は向かい合わせのボックスシートになっていて、これもやはり飴色の木が使われている。座る部分だけ深いワイン色のクッションがはめ込まれ、独特の生地の匂いがした。

「ここでいいか」

 真ん中あたりの適当な座席に荷物を置き、兄は勢い良く座った。クッションが大きくバウンドする。僕も真似して、思いっきり座席を揺らして座った。

 兄と向かい合わせに座ると、急にそわそわして心が躍る。都会育ちの僕達にとって、こういう形の座席に座る事すなわち遠出であり、非日常の象徴なのだ。思わず僕は足をばたつかせて笑う。行儀が悪いなどと文句をつける大人は今、誰もいないのだ。浮かれ始めた僕を見て、兄も笑っていた。

 獣の溜息と唸り声のような音が再び響き渡り、扉が閉まる。そして、僕らを乗せた黒い獣はゆっくりと動き出した。背中を引っ張られるような引力を感じる。

 車窓から見える駅のホームが徐々に左へ流れて行く。次の電車を待つ人々は僕らに目もくれず、淡々と携帯電話を弄っていた。電気屋のロゴが入った赤い風船を持った幼い姉妹とだけ目が合う。揃いの白い帽子を被った少女達は、小さな口を半開きにして瞬きもせずに、流れていく僕らを黒々とした瞳で見つめていた。

 列車は段々と速度を上げてゆき、駅のホームがあっという間に視界から消える。複雑に絡み合う電線や線路と共に、近代的な高層ビル群が姿を現す。夕焼けが映りこんだガラス張りのビルが乱立する街は美しくも見えたが、無機質で冷たいものにも感じられた。

 夜の到来に向けて自己主張をし始めた繁華街のネオンが視界に入っては消える。僕らの住む街は太陽の光と共に少しずつ遠ざかっていった。

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 僕達の家は東京の東側、隅田川の近くにあった。川の向こうに煌びやかな浅草の風景が見える、薄汚れた下町の住宅街だ。

 頭上を走る高速道路に空を遮られ、毎日毎晩自動車の走る音がするこの町があまり好きではなかったが、橋の上から見る隅田川だけは好きだった。夕日の美しい時間になると、よく兄と二人で川の流れを見ながら、どこか遠い世界の話をした。

 母はいつもこの川が嫌いだと言っていた。ゴミが多くて水が汚いからだそうだ。それは母の故郷の事を考えれば無理のない話ではある。

 母の故郷は美しい川の流れる小さな町だった。緑深い山から勢い良く流れる川は、僕がいつも見ている川より遥かに力強く、そしてどこまでも透き通って美しかった。

 穏やかな時の川は強さの中にも優しさと包容力を持った存在であったが、台風や大雨の時の川はすべてを飲み込む怪物そのものだった。流されたら最後、二度と帰っては来られないような気がした。

 今僕らが向かっているのは、まさにその川のある町だった。

「おじいちゃん家に行ったらさ」

「ん?」

 突然の呼びかけに、窓枠に頬杖を突きながらビルの群れを眺めていた兄が顔を向ける。

「またあの飛び込み、見せてくれる?」

「もちろんだ。今年はもっと高いところから飛び込んでみせるよ」

「誰にも負けない?」

「ああ、誰にも負けない」

 兄は口角を上げて、自信有り気な笑みを浮かべる。

 飛び込みとは、母の故郷の子供社会における一つの儀式だ。

 毎年夏休みになると、町の子供達は川遊びに出かける。その遊び場には大きな岩があり、そこから川に飛び込む事が出来るか否かで少年達の力関係は決まっていく。度胸試しのようなものなのだ。

 兄は、町のどの少年達よりも高い岩から飛び込む事が出来た。軽やかに跳ね上がり垂直に落下する様は実に鮮やかで、そのまま空に飛んでいってしまってもおかしくなかった。

 そんな兄は少年達の食物連鎖ピラミッドの頂点に立つのが当然なのであったが、彼は何故か他の子供達に飛び込みを見せようとは絶対にしなかった。僕だけが、兄の飛び込みを見ることが出来た。日が暮れて子供達が川から離れた後、兄は僕にだけその華麗な技を披露してくれた。夕日に照らされたそのシルエットは、それは美しいものだった。

 

赤紫色に染められたビル群が、突如暗闇に飲み込まれる。どうやらトンネルに入ったらしい。空洞に車輪の擦れる音が響き渡り、急に耳に水を詰め込まれたような感覚に陥る。不快感を紛らわすために僕は両耳を抑える。

 状況を察したのか、兄は僕に水を飲むことを勧めた。僕はリュックサックに手を突っ込み、替えのシャツやら下着やらの奥からオレンジジュースのペットボトルを取り出し、一気に飲んだ。熱気で温まったジュースは喉に纏わりついて少々気持ちが悪かったが、耳鳴りは少し和らいだ。

 窓の外の景色が単調になると、急に退屈になる。目の前を一定のリズムで通り過ぎるライトの光線と、それに重なって映りこむ自分の顔を眺めていると段々睡魔が襲ってきた。

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「…ます」

 遠くからぼんやり声がした。

 眠りに落ちかけていた僕は、突如現実に引き戻される。それでもまだ意識は朦朧としていた。

「切符を拝見します」

 振り向くと、通路に黒い制服を着た駅員が立っていた。

「切符を見せてください」

 今度は先程より強く、語尾に少し苛立ちが感じ取れた。目深に被った駅帽と眼鏡の反射で表情が読み取れないのが怖く思えた。

 僕は慌てて首から提げたカラフルな車の柄の簡素な財布を開き、中に入っているカード状のものを全部引っ張り出した。ほとんどがアニメや特撮のヒーローが描かれたトレーディングカードだ。

 キラキラと七色に光るレア物のヒーローカードと水泳教室の会員証の間に、母から受け取った2枚の切符は挟まれていた。カードの山を窓の小さな机に置くと、そこに兄の分の切符がいつの間にか置かれていた。兄は「一緒に頼む」と目配せをする。

 二人分、合計4枚の切符を渡すと駅員は愛想の無い声で礼をし、使い込んで黒ずんだ分厚い革の手帳のような物を取り出して切符を確認し始めた。

 無事に事を終えたらしく、駅員は無言で去っていく。僕は安堵の溜息をついた。

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意識が飛ぶ。また少し眠ってしまったらしい。

 目を開くと、正面の兄は腕を組んで目をつぶっていた。眠っているというよりは、何か考え事をしているように見える。

「兄ちゃん、トイレどこかな」

 そう呟くと兄は目を開く。

 「うーん。向こうにあるんじゃないか? 荷物見ててやるから行ってきていいぞ」

 眠る前にジュースを一気に飲んだせいか、用を足したくなっていた。僕は荷物を兄に任せると、『三号車』と書かれた扉を潜って進行方向と逆の車両の方へ歩いた。

 退屈なトンネルはまだ続いているらしい。一体、どれほど長いトンネルなのだろう。まるで普段乗っている地下鉄の中にいる気分だった。せっかく旅行なのだから、もっと景色が見て楽しみたい。

 それにしても、この列車に乗っている客は少ない。ほとんどの客が一人で四人がけのボックスシートに座っていた。僕の乗っていた三号車は、一番後ろの座席に一人だけ、鼠色の着物を着た年配の女性が座っていて、黙々と本を読んでいた。

 便所は六号車と七号車の間にあった。揺れる車内で用を足すのは落ち着かないし、少し困難だった。便所の隣に備え付けられた手洗い場で手を洗った後、すぐに戻るか悩んだが少し車内を探検してみる事にした。

 七号車は今までの車両とはまるで違うものだった。ワイン色の絨毯に長方形のテーブルが並び、白いクロスが掛けられている。背もたれの長い椅子が四脚ずつ綺麗に並び、揺れても平気なように、椅子の足は床に固定されていた。各テーブルには一つずつ、小さなランプが灯っている。窓には質の良い深緑色の、分厚いカーテンが下がっていた。

 扉の上のプレートに『食堂車』と書いてあるのを見て、僕は何となく理解する。その雰囲気は電車というよりレストランに近かったからだ。しかし、食事をしている人は全く見当たらず、食事を頼んでも誰も来ないような様子だった。

 食堂車を越えると、今度は寝台車両になっていた。

 通路は列車の中心から端に移動し、窓沿いを歩くことになる。寝台部分はすべて深緑色のカーテンで閉ざされていて中を見ることはできなかったが、上下二段のベッドが並んでいるのだろう。鉄道の博物館で、似たようなものを見た記憶があった。

 人がいるのかいないのか分らない状況で、振動に合わせてゆらゆらと揺れるカーテン達は妙に不気味に思え、足早に通過する。どこまで進んでも列車は静かで、トンネルの風を切る音ばかりが空しく響いていた。

十三号車の扉を抜けると、今まで通った中でも群を抜いて不気味で薄暗く先の見えない通路が続いていた。天井に下がった電球は光を失いかけ、小刻みに明滅を繰り返しながら弱弱しく冷たい床を照らしている。

 揺れる通路を慎重に進むと、突然耳の中に溜まり続けていた空気が抜けるような感覚が襲った。同時に今まで車内を支配していた狭い空洞の反響が一気に開放され、広い世界に放出される。

 そして眼前には、雲ひとつ無い藍色の空と垂直に走る地平線が広がった。

 澄んだ藍色は大地の境に近づくにつれ、青と紫と桃色の複雑なグラデーションになる。もう沈んだであろう太陽の残り香のような光が、地平線間近で儚く光を発していた。

 今抜けたはずのトンネルの出口は、見つけることができなかった。トンネルに今までいたことが疑わしくなるくらい広大な景色だった。

 通路の一番奥は列車の最後尾だったようだ。突き当りには大きなガラス窓があり、景色をよく見渡せる。窓は僕が背伸びをしなくても外を見ることができる高さだった。列車の進行方向と逆の景色を見るのは新鮮で、線路が青紫の彼方に吸い込まれていくように見えた。

 暗くてよく見えないが、湿原のような場所を電車は走っているらしい。小さな湖沼が模様のように、草原の間から覗く。淀んだ水面には空の色が少しだけ反射している。時折、鷺に似た鳥が水を飲んでいるのを見かけた。

 長いトンネルを走っているうちに、随分遠くまで来てしまったらしい。あまりに唐突で見慣れぬ景色に、僕はしばらく呆然と立ち尽くしてしまった。


 僕は隣の気配に気がついたのは、それから数分経過してからだった。

 真横の扉付近に、いつの間にか見知らぬ人影が見える。僕と同じくらいの背幅で、長い髪を後頭部に一つ結びしている。女の子だろうか。

 人影は窓の外の景色を見ているようで、こちらには全く気づいていないらしい。ちょうど光の当たらない一角にひっそりと立つその少女らしき人物は、暗闇に溶けてしまいそうなくらい存在感が無かった。

 声をかける、というような行為は小心者の僕にはとても出来なかった。そうっと足を抜き出し、泥棒でもするかのような足取りでその場を慎重に離れる。通路まで辿り着くと、あとは少し早足で通り抜けた。

 明滅する青白い明かりに照らされた道は、先程よりより不気味に見える。足早に通り過ぎようとすると、急におかしな気配に襲われる。

 急に鳥肌が立ち、体がひんやりと冷たくなった。ほの暗い車内が何かの気配に覆われ、息苦しくなる。

 ______水の中みたいだ。

 何故だか分らないけど、そう思った。

 冷たく重い水中を、もがくように抜ける。

 早く、少しでも早くこの空気から抜け出したい。

 僕は、溺れた事は一度も無い。そもそも、溺れるほど危ないところには行かない。

 それなのに、冷たい水に沈んだ時の辛さや孤独感が頭の中に満ち溢れて止まらないのだ。

 早く、早く水面に上がらないと______

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 十三号車の扉を抜けると、蛍光灯の光と共にようやく水中から抜け出すことが出来た。大きな溜息をつき、正しく呼吸できる事を確認する。汗がじっとりとTシャツの背中を濡らしていた。

 寝台車の様子が少し変わっているように見えた。カーテンがいくつか開いていて、窓際の通路に腰掛けている人が何人かいる。靴を脱いで窓に張り付く幼い少女を、老婆がいとおしそうに見つめていた。

 深緑色のカーテンの中は、やはり二段ベッドになっているようだ。少し硬そうな枕が置かれ、少しくすんだ白いシーツが掛けられている。ベッドに横たわる人の姿も、カーテンの隙間からちらほらと目撃できた。

 なんだか、急に賑やかになった感じがする。トンネルを抜けると同時に寝ていた人が皆一斉に起きてきたのだろうか。

 いや、違う。

 明らかに人が増えている。

 それは、食堂車である七号車の扉を開いた時により確信を持つ事ができた。

 誰もいなかったはずの食堂車に、十数人ほどの人が増えている。窓際で雑談する、型の古そうな背広を着た背の高い青年達。竹で出来た弁当箱を広げ、手作りらしい弁当を楽しそうに食べる母親と子供達。落語家のような着流し姿の男は、一人で新聞を読みながら酒を飲んでいる。

 彼らは皆、寝台車のカーテンの中にずっといたとでも言うのだろうか。それとも僕がまだ確認していない一号車と二号車にいたのだろうか。

 理由がどうだとしても、とにかく奇妙だ。

 僕が知る限り、この電車はトンネルに入ってから今まで一度も停車していないはずなのだから。


「坊や、迷子になっちゃったの? 」

 右の窓際から、落ち着いた女性の声がした。

 見ると。異国風の細かい模様が入った薄いベールを被った初老の女性が、白いクロスのテーブルに一人腰掛けていた。

 僕は、用を足すついでにここまで探検にきたのだ、と話す。すると女性は目尻に皺を寄せて、穏やかに笑った。

「ふふ、それなら良かったわぁ。だってあなた、迷子の子犬みたいな顔して立ってるんだもの。心配しちゃったわよ」

「いや、えっとそれは」

 僕は一旦言葉を引っ込めたが、改めて口を開いた。

「あの…この電車…」

 女性はなあに、とにっこり笑い返す。

「この電車、急に人が増えてませんか」

 扇風機の首がゆるりと回転し、嗅ぎなれない異国の香の香りが僕の鼻を掠める。 ぬるい風が女性の髪とベールを柔らかく持ち上げた。その様は西洋絵画のようで、少し神々しくも見えた。

 女性は一瞬真顔になったが、すぐにまた優しい笑みを浮かべる。

「増えてなんか、いないわよ」

 彼女は子供を慰める母親のように言う。

「えっ…で、でも」

「増えたんじゃあないの。あなたが気づかなかっただけ」

 どういう意味だ。

 いるのに気づかない______それはまるで先程の少女のように______。

「そのうち分かるわよ。」女性はくすりと笑う。

「ねえ、あなたはどこまで乗っていくの?」

「え、えっと、おじいちゃんの家に。お兄ちゃんと二人で」

「そう、お兄ちゃんと一緒なのね。それは楽しいわね」

 手を口に当ててくすくすと笑い、女性は最後にこう尋ねた。

「じゃあ、坊や達はどこから乗ってきたの?」


 窓の外の青紫色はいつしか闇に溶け、天と地の境が分らないほど黒く染まっていた。

 気づけば僕は、兄の待つ三号車目がけて一直線に駆け出していた。

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「どうしたんだ。何があった?」

 わき目も触れず必死に走ってきた僕を見た兄は、思わず立ち上がり眉をしかめて真剣な顔をした。

「に、兄ちゃん、この電車、変だ」

 そう言うと僕は雪崩のように今見てきたすべてを兄に言い放った。最後尾の少女の事、突然増えた乗客の事、女性との会話________。支離滅裂で全く文章になっていなかったが、兄はすべて真面目に聞き入れ、うなずいてくれた。

「それでね、その女の人に聞かれてね、」

 僕は言い淀むと、鼻をすすりながら目線を下に落とす。

「兄ちゃんは、思い出せる?」

 目尻が熱くなる。考えれば考えるほど、夢の中の出来事のように遠い霧の中に霞んで、霞んで_______

「思い出せる? 僕達が、どこから乗ってきたのか」

 扇風機の風が、熱くなった頬をざわりと撫でた。

─────────────────────
続く

著 宵町めめ(2009年)
note掲載版は、文章を原作版、絵をノベルゲーム版としたものです。


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