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【連載小説】無限夜行 八.「無限の夜を行く」(最終話)

(今回はサムネネタバレ回避のため、本文までスペースを空けます。)

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 黒々と深い闇の中に、穴がひとつ開いた。人の頭一つ分くらいの大きさの穴から、沈みかけた真紅の太陽が漏れる。額を血で濡らした駅員服の少年が穴の中から見えた。僕が穴の先を見ようとすればするほど穴は拡がっていく。

 木の棒が地面に転がる。空気が抜けていくような声を発しながら、僕の正面に立つ影は呻いていた。黒い腹部にぽっかり開いた穴を抑えながら呻いていた。しかし、いくら両手で塞ごうとしても穴は塞がらない。指の隙間から黒い靄が溢れて止まらない。

 やがて、その体全体が焦げたように黒く染まり、重力を失った影はすべて黒い雲のようになって拡散した。黒雲は赤紫色の空へゆっくりととぐろを巻きながら舞い上がり、そして宵の明星輝く夜空の入口へ溶けていった。

 僕が数分前まで兄と呼んでいたそれは、くらやみになってしまった。街の色彩と輪郭を隠し、夜へと誘うくらやみに。いや、それが本来あるべき姿だったのかもしれない。僕はいつもこのくらやみから彼を呼び出していたのだから。先の見えない深淵な闇に手を伸ばし、図工の時間に作った粘土細工みたいにこねて、形作って。


 長年雨風に晒され剥がれた木材達が囁き合うように音を鳴らし、西からの涼しい風が路地に吹き込んだ。横転した黄色い電車はまだ一生懸命に、小さなゴムの車輪を回転させていた。僕はそれを拾い上げ、そっと裏のスイッチを切る。モーターは勿体ぶるようにゆっくりと余韻を持たせなが動きを止めた。

 雑に転がったヒビ割れ眼鏡と煤けた駅帽の先に、負傷した少年は仰向けになっていた。帽子の跡が残る髪が草原のように揺れる。額の血は乾き始めていた。天を真っ直ぐ見つめながら大の字になり、びくとも動かない。

 僕はじりじりと近づき、脈打つ鼓動を抑えながら小さな声で呼びかける。

「啓介」

「生きてるよ」

 返事は即座に返ってきた。

「空、見てた」

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 深い群青が空を包み込み、しなやかな魚のような雲が気持ちよさそうに泳ぐ。太陽の気配だけを残しながら、桃色の帯は地平線の向こうへ消えていった。すっかり暗くなった無人の路地は明かり一つなく、僕の前を歩く駅員服を見失ったら二度と帰れない気がした。だから、少しずつ距離を近づける。

 いつか、祖父母の田舎で迷子になった帰り道。あれはいつの事だっただろう。確か僕が一人で道に迷って、それを啓介が探しに来て、二人で鬱蒼とした夜の神社裏を怯えながら歩いて。結局更に道に迷い、道で会った近所の人に助けて貰った覚えがある。僕はくしゃくしゃに泣いて、啓介は耳まで真っ赤にしながら涙を堪えていた。ずっと昔に感じる夏の日だ。


 「道、分かんの?」

「分かる。列車の明かりが見えるだろ」

 もはや路地とも分からない闇の迷路を歩く啓介の足取りは確かだった。じっと空と屋根の間を見据えながら、迷いなく進んで行く。歩く度にずれていく歪んだ眼鏡を頻繁に直しては、時折頬と眉間に皺を寄せて額を抑える。

「明かりなんて見えない」

「見えるんだよ。お前目悪いな」

「見えないものは見えない」

「うるさいな。置いてくぞ」

 兄弟のいつもの会話。遠い日に忘れてきた、いつもの会話。

 久々に見る啓介は随分大人に見えた。背が伸びて、中学生か高校生くらいに見える。そばかすと鼻が赤いのは相変わらずだが、割れたレンズから覗く瞳からは軸のぶれない強さを感じた。勉強机のライトだけを映し込んでいたあの淀んだ瞳とは、違う。

「これ、返す」

 僕は両手に抱えていた黄色い電車を差し出した。啓介は歩きを止め、こっちを振り向く。

「啓介のだっただろ」

「何だよ今更。いいよ。やるよ」

「でも」

 啓介は糸の解れた襟巻きを翻し、再び歩き出す。

「その代わり、もう壊しても絶対直さないからな」

「……うん」

「それより、こっちだ」

 駅員服のポケットの奥から取り出したのは、小さな厚い紙切れ数枚だった。それは僕たちが散々探し回ったあの切符だった。

「返すつもりだった。一応」

 それは紛れも無く、僕が母から受け取り改札に通した切符だった。乗車券と……もう一枚の名前は忘れたが、とにかく二枚で一組。一人分。機械で印字された駅名を指でなぞりながら、僕はその名をそっと囁く。ずっと思い出せなかった、僕の行く場所。帰る場所。

「あとこれも、返す」

 啓介の汚れた手に、キラキラ光るものが挟まれている。

「え、これ、なんで」

「何でって、お前が渡してきたんじゃないか」

 安っぽく虹色にきらめくトレーディングカードが二枚。剣を握った黒い衣装の少年と、その剣が描かれている。

「これは……もういいよ」

「もういい、じゃない。持ってろ」

 紺色の空に遠吠えのような警笛が垂直に響き渡る。気付けばもう、列車の明かりが住宅の隙間から漏れていた。眩しくて、目の前のすべてが真っ白に見える。

_________あいつの事、忘れんな。

 白い光に包まれた駅員服の少年から、そう聞こえたような気がした。


 無限夜行は大きな息を勢い良く吐き出し、走る準備を整えていた。それは待ちくたびれて膨れっ面をしている姿にも見え、少しおかしかった。列車は僕らを迎えると二度目の警笛を鳴らした。

 僕は二枚の切符と二枚のカード、そして黄色い電車のおもちゃをしっかりと握り締め、列車のステップを登る。線路から直接乗ると、随分高く感じられた。通路に入ると古い機械の匂いが鼻にまとわりつく。なんだか懐かしくも感じられた。

 振り返ると、啓介はまだ線路の上に立って眼鏡のズレを調整していた。

「乗らないの?」

「僕は少しここでゆっくりしようと思う。お前を送り届けてこいつが戻ってきたらまた乗るよ。多分すぐに戻ってくる」

「……帰らないの?」

「僕は、今の生活がすごく楽しいんだ。この無限夜行と一緒にずっと旅をしたいんだよ。空も海も山も街も、信じられないくらい綺麗なんだ。悠太、お前だって見ただろ? 鮮やかで、色んな色をしててさ。世界がこんなに色で満ちてるなんて、知らなかった。いくら机に向かったって分からなかった」

 湧き出す泉のようにそう話すと、啓介は少し照れくさそうに駅帽を深く被った。列車はまた、大きな息を吐き出す。地響きのような振動が足から体に伝わる。

「これから、どこに行くの?」

 啓介は列車の頭と逆の方の線路の先を遠く見つめ、眼鏡をゆっくりとかけ直す。

「さあな。行ってから考えるよ」

 そして、三回目の警笛が鳴り響いた。

 僕と啓介の間で、ゆっくりと扉が動く。

「ちょっと待ってよ! 僕まだ、」

 

 _________まだ、謝りたいことがたくさんあるんだ。


 扉は閉まり、列車は前へ動き始めた。

 僕は急いで車両の扉を開く。そこは見慣れた三号車だ。僕のリュックサックが一つ、乱雑に転がっている。

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 列車が速度をあげる前に、座席に駆け込んで窓を勢い良く押し上げた。古い木の甘い匂いを含んだ夜風が音を立てて吹き込む。窓明かりに照らされた線路の片隅に駅員服の姿があった。僕は身を乗り出し、息を吸い込む。

「啓介兄ちゃん」

 ヒビ割れた眼鏡の奥が、微かに微笑んでいたように、見えた。

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 光の失われた木造の海を、僕一人を乗せた無限夜行は一気に走り抜けた。

 星は夜の空を埋め尽くし、輪唱するように輝き合う。やがてその光は細い十字の筋を描き、点を線で繋いで複雑な絵画のようになった。光の洪水は眩しくて目がくらんだ。夜とは思えないくらい鮮やかだった。

 やがて列車は大きな川沿いに出た。蛍の群れが夏風に乗って、共鳴し合いながら舞い、踊る。すべてが夢のようだった。

 開けっ放しの窓から吹き込む風を浴びながら、僕は腕の中の黄色い電車をそっと抱きしめた。

 体に帯びる熱は、いつまでも冷めなかった。


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著 宵町めめ(2009年)
note掲載版は、文章を原作版、絵をノベルゲーム版としたものです。

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