【連載小説】無限夜行 六.「路地迷宮」
暗い夜の森の間を、十数人程度の乗客を乗せた列車は走る。カーブと揺れが多く、落ち着かない道だった。
少年は揺れを物ともせずに、先頭部の通路に両足を肩幅ほどに開いて立っている。吸い込まれそうな程に黒い短髪とシャツは、闇と同化していた。
「そこに居たんだな」
少年は呟く。声変わりを済ませた低音の声は、子供離れした威圧感があった。
僕はその二メートルほど後ろにいた。僕の兄である黒い少年は、僕の存在に気付く様子はない。ただ真っ直ぐ正面を睨んでいる。
「あの時追い出したはずなのに、また邪魔しやがって」
抑揚の無い声と共に、兄はゆっくりと前に足を出す。床を擦る音がする。彼の右手に握られた木の棒が床に届いていた。少年の歩みは遅いが、迷いが一切感じられなかった。やっと訪れた機会をじっくり味わうように、一歩一歩着実に床を踏みしめる。
僕はその場を動くことができなかった。焦るように安定の悪い道を走る列車も、今にも光を失いそうな電球も、すべてが僕を不安にさせる。
千夏と別れて再び列車に乗った後、僕は兄の姿を探した。三号車の座席に荷物を置いたまましばらく姿を見せなかったのだ。列車内をくまなく歩き回ってようやく彼を見つけたのは、僕と千夏が話し合ったこの列車先頭部だった。
兄はついに正面のガラス窓の前まで歩み寄る。その瞬間、周りを包んでいた冷たい森の気配が消え、炎のように赤く焼けるような光が右窓から差し込んだ。朝焼けにしては鮮やか過ぎる光。これは夕日だろうか。この不思議な列車はまたしても、空間を越えて違う夜へ渡ってしまったという事なのか。
「お前なんか……」
赤い光に照らされた少年の声が響く。窓ガラスに映りこんだその瞳は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く光っていた。
「お前なんか、居なくなれ。お前なんか、消えてしまえ」
窓に映る自分と対話するように、ガラスに額を押し付ける。
「お前さえ居なくなれば、俺は……」
その時体が大きく後ろに引っ張られ、僕の足がよろめいた。そして今度は前方に力がかかり、前につんのめって倒れる。
列車が急ブレーキをかけたらしい。
耳を裂くような高い音と共に、急激にスピードが弱まっていった。後ろの車両から、何かが倒れるような音がする。あの寝台列車の空き瓶などは、確実に落ちて割れてしまっただろう。
急停止しても、すぐには完全に停止しない。のろのろと残り香のように列車は動いていた。そして、突然無人のはずの運転席の扉が勢い良く開き、人影が外に飛び出した。
人影は、駅員の姿をしていた。
手すりに掴まって体を支えながらそれを目撃した兄は、すぐさま乗客用の扉の持ち手を掴む。だが扉はびくともしなかった。どうやら運転席以外の扉はすべて閉ざされているらしい。
兄は舌打ちし、怒りに満ちた拳で開かずの扉を殴った。扉の上部の覗き窓は、人が通るには小さすぎる。少年は呪いの言葉を吐き捨てると、列車正面の大きな窓ガラスを睨みつけた。そして、手に持った棒を力いっぱいガラスに叩きつける。
大きな破壊音が耳を貫いた。蜘蛛の巣状のヒビが入り、分厚い窓ガラスが割れてゆく。三回くらい殴りつけた頃には、人が通れるくらいの大きな穴が空いていた。
凶暴な黒い少年は窓に飛びつき、自ら開けた歪な穴を通って運転席へ降りる。そして、脇の扉から降り、駆け出した。
僕も慌てて立ち上がり、紫色のアザができた右膝の痛みに耐えながら割れた窓へ走る。鋭利な刃物と化した破片に刺さらないように怯えながら窓をくぐって運転席に飛び降りる。スニーカーの靴底で何枚もの細かなガラスが割れる音がした。
赤く燃える夕焼け空に飛び出すと、目の前に広がるのは古い木造家屋がどこまでも続く住宅街と、そこを高速で走り抜ける影のような少年の姿だった。
降りた場所は駅ではなく、線路のど真ん中だった。列車は本当に予期せぬ急停車だったのだろう。
どれも同じように見える茶色くくすんだ家々は、線路の際までびっしりと詰まっていた。道はいくつもあるが、どれも細く入り組んだ路地で大きな通りは無い。どこまで見渡しても背の低い家しかない場所だった。
駅員の姿はとっくに見えず、兄も遠ざかって見えなくなってしまった。僕は運転席から垂直に伸びる道を走り、兄の姿を追った。見失ってしまった以上、直感で進むしかない。とにかく走り続けた。
奇妙な事に、これほど家が並んでいるのに全く人の気配がなかった。あるのは哀しげなカラスの鳴き声と古い木材の鼻をつく臭いだけだ。夕日を背に走る学校帰りの子供達、買い物袋を提げた人々、窓から漂う夕食の匂い……そういった情景は全てこの場所には一切存在しない。いや、存在〝した〟のかもしれない。人が住んでいたような気配はあるのだ。ある日突然人だけが居なくなり、そのまま時間が止まってしまったような感じである。止まっているから朽ちもせず、風化もしない。ただただそこに留まっている。そんな場所に思えた。
左右から迫り出した歪んだ屋根に見下ろされているような気持ちになりながら、僕は路地を走り続ける。荷物は列車に置いてきてしまったが、そのおかげで市場で走った時より負担は少なかった。どんなに走っても、兄の姿も駅員の姿も全く見えなかった。完全に見失ってしまったようだ。
今まで、僕は兄を見失った事は一度も無かった。
僕が走るのが苦手で迷子になりやすい事を知っているから、常に背後を気に掛けてくれた。人通りが多い道は手をつないで進んでくれた。
今の兄はもう僕が見えていないのだろう。あの駅員の姿をした切符泥棒を捕まえることしか、頭に無いのだ。
切符泥棒を捕まえて、切符を取り返したくて堪らないのだろうか?
いや、違う。
_________殺してやる
彼は窓ガラスを割る直前、確かにそう吐き捨てた。明らかな殺意を込めた冷たい声で、そう呟いた。
あれはもう、僕の好きな、僕の憧れる兄の姿では無い。
兄は僕が困っていたら必ず助けてくれた。どんな悩みでも真剣に聞いてくれたし、落ち込んだときは楽しい話をして暗い気持ちを忘れさせてくれた。幼稚な遊びにも喜んで付き合ってくれた。
だから、こうやって見失う事などある筈が無い。あってはならないのだ。
思えば兄は市場に来たあたりから、段々僕から離れ始めていた。僕が理解できない存在になっていった。
そんな事はあってはならない。
それでは意味が無い。
それは、僕のヒーローではない。
兄はヒーローだ。
あれはヒーローではない。
じゃあ、あれは誰なんだ。
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路地はどこまで行っても路地だった。
入り組み、歪み、何度も同じ場所へ戻る。袋小路に迷い込み、元の道に戻るともう自分がどっちから来たのか分らない。どこまでも同じような家。家。家。誰も居ないゴーストタウン。
それはまさに、迷宮と呼ぶにふさわしい。迷い込んだ獲物を弄んで絶対に逃がさない。路地の迷宮だ。
僕は息を切らしながら走り続けた。時の止まった迷路に、自分の足音と息遣いだけが虚しく響き渡る。孤独で堪らなかった。空をゆったりと流れる珊瑚色の雲すら、僕をあざ笑っているように見えた。
このままずっと誰も見つからなかったら、僕はこの路地迷宮で独り朽ち果てるのだろうか。例え警笛が聞こえたとしても、列車に戻る道が分らない。茜色に照らされた町は、夜にすらならないように思えた。
その時、向こうの曲がり角から何か動くものが見えた。
それは、地面をとろとろと頼りなく動く、小さな物体。
猫だろうか。いや、それにしては小さい。物体は茜色一色の世界で、鮮やかな黄色を光らせている。
あれは、電車だ。
小さく黄色い僕の電車のおもちゃじゃないか。
壊れてずっと動かなかった筈のそれは、安っぽいモーター音を響かせて左右に揺れながら自らの力で走っている。
_________お前、また壊したのか。
記憶の扉から声が聞こえる。
_________直したってどうせまた壊すんだろ? 次壊したら返してもらうからな。そもそもこれはお前のじゃなくて……
ああそうだ、いつもこうやって僕達は……
電車の現れた曲がり角を曲がると、家々の影になった暗く細い道に二人の少年の姿があった。
一人の少年は木の棒を振り上げ、馬乗りになってもう一人の少年を殴っていた。
「啓介」
僕は、彼の名を呼んだ。
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<ある手紙の記録>
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澤野ミツ様
梅雨が明けて、汗ばむ季節になりましたね。お母さん、元気にしていますか? この間は野菜をたくさん送ってくれてありがとう。手作り味噌はとても美味しくて、主人も喜んでいました。
さて、電話でも話した通り、今息子の悠太の事で悩んでいます。去年の夏のあの日から、ずっと悠太の調子がおかしいのです。元々空想好きな子なのでしばらく様子を見ていたけれど、ここ一年くらいのあの子の行動派やはり理解が出来ません。
どうやら、悠太には「お兄ちゃん」がいるらしいのです。あの子が言うには、クールだけど優しくて強い理想のお兄ちゃんで、いつも悩みを聞いてくれるのだそうです。一度絵を描いてもらった事がありますが、その姿は悠太の好きなテレビのキャラクターにそっくりでした。
悠太は眠れない夜中に度々、物置(あの子が言うにはお兄ちゃんの部屋らしいですが……)に通い、一人で楽しそうに何かを話しています。学校の帰りが遅いから探しに行ったら、いつも隅田川の橋の上で見えない何かと会話をしています。その事について聞くと、必ず「兄ちゃんと遊んでいた」と答えるのです。
おかしいですよね? 悠太は一人っ子の筈なのに。私がいくら言い聞かせても、一向に話を聞いてくれない。
でも不思議な事に、私自身も最近たまにおかしな感覚に襲われるんです。それは心の中のある部分が突然ぽっかり消えてしまったような喪失感。考えてみれば、それも去年の夏から感じていたような気もします。
最近主人の撮った家族写真を整理したら、どれも不自然な空白がありました。私と悠太の隣にある、不自然な空白。それは決まっていつも、子供一人分くらい。最初は主人の写真が下手なだけだと思っていました。でも違った。写真屋さんに撮ってもらった七五三の時の写真にすら、謎の空白があったんです!
うちの二段ベッドだってそうです。どうしてうちは一人っ子なのに二段ベッドがあるんでしょう? 悠太は下のベッドはお兄ちゃんのものだと主張します。気味が悪くて主人の妹家族に譲ったけれど、まだ心は落ち着きません。
もしかしたら、本当に私にはもう一人の子供……悠太の兄がいたのでしょうか。そんな事すら考えてしまいます。私も疲れているのかもしれませんね。
それともう一つ、引っかかることがあります。悠太の中では、どうやら去年のあの事件が無かった事になっているようなのです。つまり……千夏ちゃんが生きている事になっているという事です。まあ悠太は大分千夏ちゃんに仲良くしてもらっていたみたいだし、無理もないかと思ってそっとしておいたのですが、もしかしたら前述の件に何か関係があるのかも知れません。
そこでお願いなのですが、七月の中頃に一週間ほど悠太をそちらに預けても良いでしょうか? 丁度千夏ちゃんの一周忌もある事だし、あの子の心に何か変化が起きないかと思っています。悠太はおじいちゃんとおばあちゃんは私達よりも好きみたいですし……
私と主人は仕事が忙しくて顔を出せませんが、また近いうちに時間を作って里帰りをしたいと思っています。
それでは、詳しいことはまた電話します。父さんにも宜しくね。体に気をつけて。
平成二十一年
七月三日
翠より
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続く
著 宵町めめ(2009年)
note掲載版は、文章を原作版、絵をノベルゲーム版としたものです。
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