見出し画像

【連載小説】無限夜行 三.「うしろの少女」

 くすんだ茶色い羽の蝶が、電灯の周りをのろのろと飛んでいる。蝶ではなく蛾だ、と兄が呟いた。

「兄ちゃん、何か思い出した?」

 兄は頬杖をつき、窓の外に広がる闇を遠い目で見つめている。

「いや…何でだろうな。さっぱりだ」

 元来た場所が思い出せないのは、兄も同じだったのだ。

 トンネルに入る前に見ていた景色。当たり前に毎日見ていたはずの景色。僕たち兄弟が育った街。父がいて、母がいて、学校のクラスメイトと先生がいて…

 記憶が完全に消えた訳では無かった。そこにいた人々や過去の思い出、街の雰囲気は鮮明とは言い難いが思い出すことはできる。

 ただ地名が、街や駅、通り、川などの名前が一切出てこないのだ。

 あれほどよく口にしていたのに。今日も、駅の看板などで数え切れないくらい目にしていたはずだ。

 ______悠太、4時になったら…駅まで車で行くからね。その前にちょっと…通りのコンビニに寄って買い物を…

 今日の昼、母とそんな会話をした。したはずなのに。まるでテレビの放送禁止モザイクのように、地名の固有名詞がぼやけるのだ。

 不思議なことに、名前が分らないとその場所が現実にある場所という確信が持てなくなってしまう。

よく夢の中で文字を読もうとすると、どんなに近づいてもぼやけて読めない事がある。目覚めた後にその文字を思い出そうとしても、煙のように一瞬でふわりと記憶から消えてしまう。そして、目が覚めて現実世界の事が頭に入ってくる頃には、どんな夢だったかも思い出せなくなってしまうのだ。

 そんな感覚に近かった。

 今、僕らにとってあの街の記憶は「良く覚えている夢」なのだ。

そして今が、目覚めてまだ布団の中にいる状態なのだとしたら。布団の外の世界とは、一体何なのだろうか。そしてその「夢の中の世界」はどこに行ってしまうのだろうか。

それを想像するのが今は一番怖くて堪らなかった。今はまだ思い出すことができる両親や友達の名前、姿、思い出までもがそのうちぼやけ始め、綿菓子のように溶けて無くなってしまうのだろうか。

 今は、目の前に兄がいる事が唯一の救いだった。目の前に兄がいる限り、僕が兄を忘れる事はない。同時に、目の前に僕がいる限り、兄が僕を忘れる事は無いはずだ。

 コツン、コツンと電灯にぶつかりながら頼りなく動き回る蝶のような虫を目で追いながらそんな事を考えていると、兄が突然目を大きく開いて言った。

「_____切符だ」

「え?」

「切符だよ切符。そういえばあれって乗った駅の名前が書いてあるんじゃなかったか」

 確かにそうだ。僕は小刻みに三回くらい頷く。

 兄はそそくさとシャツやズボンのポケットをまさぐる。そしてボストンバック、座席の上、最後に床を調べると僕のほうを振り向いた。

「お前に渡したまんまじゃなかったか?」

 そうだっけ、と僕は自分のポケットや財布の中を調べ始めた。

「ほら、あれだ。さっき駅員が来たろ? その時だよ」

「あっ」

 確かあの時、兄は自分の切符を窓枠の小さな机に置いていた。僕はそれを受け取って、財布の中から取り出した自分の切符と共に駅員に渡して、そして_____

 僕は財布の中のすべてを机の上に広げ、一枚一枚探し出した。兄もそれを手伝う。しかし探せども探せども、キラキラしたトレーディングカードばかりだった。楽しげに笑うキャラクターや派手な文字群が、なんだか今は空しく思えた。

もう何度探したって見つからないのは分っているのに、僕達兄弟は何度もカードの束をあさり続ける。

 そして、そのうち標的は泥団子のような僕のリュックサックに移る。ジッパーを開いて中身を全部座席に広げきると、一瞬にして周囲は普段の僕の部屋のような状態になった。

 カラフルなTシャツ、3年の林間学校の時に書かされた「3‐2 ふかがわ ゆうた」という名前入りの歯ブラシセット、「夏休みの友4年生」と丸文字で印刷された大判の宿題帳など、さまざまな僕の私物が散乱している。

「無いな」

「無いね」

 僕らは示しあったようにそう呟きあい、それが捜索終了の合図となった。

 広げた荷物をぐちゃぐちゃにリュックへ押し込むと、先程よりさらに不恰好な泥団子に

なってうんざりした。なんとか荷物を元通りに戻すと、僕は大きな溜息をつく。


______もし電車に乗ってる時に切符を失くしちゃったらさ、

 ふいに、駅で兄と話したあの楽しい会話が頭をよぎる。兄弟二人だけで知らない世界を旅して暮らして…

 それはとても幸せなことだろう。

 しかし、その代償がこうやって記憶を失っていく事だとしたら。

 根っからの小心者である僕は、そこまでのリスクを犯してまで冒険をしたいとは思わなかった。遊園地の乗り物のような、「助かることが分ってる冒険」がよかったのだ。胸に掛けた財布の紐をいじりながら、僕は俯いて顔を歪めた。顔が火照り、鼻水がとまらない。

「困ったな。どうする」

 正面に座る兄は腕を組み、ろくに何も見えない窓の外を見つめながら言う。

 分厚くくすんだ窓ガラスに映りこむその顔は、どこか楽しんでいるように一瞬見えた。

─────────────────
                     

 列車は相も変わらず、墨をこぼしたような世界を寡黙に走り続ける。

 そういえばこの列車には、アナウンスやベルといったものが無い。それが乗った時から感じていた小さな違和感の正体だった。この不親切な列車は、何処へ行く、何時に着くといった情報を何も与えてくれないのだ。

 しかし、僕は薄々と感じ始めていた。この列車は祖父母の待つ田舎町に向かっているとは全く思えないのだ。

 以前にも、今日のような夕方から新幹線で田舎に向かった事はあった。その時は、空が真っ暗になるのと同時くらいに着いていた記憶がある。だいたい2時間くらいだろうか。新幹線を降りてから在来線に乗り換えるのだが、それを含めてもプラス三十分がいい所だ。時計を持っていないので正確な時間が分らないが、もう着いていておかしくないと思う。

 そして祖父が駅に迎えに来て、車に乗って山道を走り古い木造の一軒家に辿り着くはずなのだ。

 そんな事を考えていると、急に祖父母の家が恋しくなる。

 快活で浪々と響く祖父の声や、大福餅のように丸く柔らかい祖母の笑顔。食べきれない量の食事がどんどん食卓に並んでいく様。いつも僕に吼える庭の柴犬。本当ならもう見ているはずだった情景が、胸を締め付けた。

 口うるさい両親よりも温厚な祖父母の方が好きだった。同年代の子供達も、学校のクラスメイトより優しいし、遊んでいて楽しい。もっとも田舎の少年達の元気さについていけない僕と遊んでくれたのはいつも女の子だったのだが。

 この列車に乗って、どのくらい経ったのだろう。今頃、祖父は物寂しい駅で一人待っているのだろうか。もしかしたら、家に電話している頃かもしれない。

 そういえば、と僕はリュックサックの前ポケットを探った。携帯電話を持っていたのだ。水色と黄色のツートンカラーをした、おもちゃのような子供用携帯電話は、前ポケットの奥に居心地悪そうに詰まっていた。

 しかし、いくら電源ボタンを押しても画面は真っ暗だった。充電が切れたのだろうか。一応充電器は持ってきたが、この電車の中で充電できるとは全く思えなかった。

 僕は大きく息を吐き出すと、使い物にならない携帯電話の蓋を閉じ、乱暴にリュックへ突っ込む。

 これでもう、外界との連絡手段が絶たれてしまった。あれほど鬱陶しかった母や、仕事でほとんど遊んでくれない父が初めて恋しく思えた。


「悠太。俺思い出したよ」

 兄の声がした。顔を上げると、吸い込まれそうなほど黒々とした瞳をこちらに向けた兄と目が合った。その眼差しは強く、確信を持ったものだった。

「あの駅員だ。駅員が持っていったんだ」

 思えば確かに、あの時僕が駅員に切符を渡した後の記憶が不明瞭だった。寝ぼけていたせいもあるだろう。それに、電車の仕組みをよく分っていなかった僕は、駅員が切符を持っていくのはおかしいことではないと思ってしまったのだ。

「つまり、あの駅員を探し出せば切符は取り戻せる。あれから電車は一度も停まっていないから、この中にいるのは間違いないはずだしな」

 兄は、得意なゲームでも始めるような顔で言う。


「でも兄ちゃん、僕さっき一番後ろまで行って来たんだけど、駅員っぽい人は誰もいなかったよ」

「隅々まで探した訳じゃないだろ?」

 兄はそう言って勢い良く立ち上がり、通路へ出る。

「じゃあ俺が今から後ろの車両を隅々まで探してくる。カーテンも扉も全部開けてな。お前は前を見てきてくれ」

 分担作業だ、と兄は言って笑った。極力危ないことをしたくなかった僕も、仕方が無くしぶしぶと立ち上がった。

─────────────────                     

 列車の進行方向へ進み、二号車、一号車と進んでいく。兄の言う通り隅々まで見渡し、洗面所の扉も開けた。後ろの車両と同じように賑やかであったが、駅員らしき姿は何処にも見当たらなかった。

 ついに一号車の先の扉を開き、先頭部分まで辿り着く。弱弱しい光を放つ電球に照らされた通路は最後尾通路の不気味さを連想させ、少し不安な気持ちにさせられる。

 僕は慎重に足を踏みしめ、一歩一歩前へ進む。また暗がりに誰か潜んでいたら、と考えると、心拍数が早くなった。

列車先頭の大きなガラス窓からは、ライトに照らされた線路だけが見えた。まるで、冷たく暗い深海を進む潜水艦のようだった。僕はゆっくりとガラス窓とガラス窓の間にある個室を覗き込む。そこは、列車の操縦席である部分だ。駅員のいそうな場所というと、もうそこしか思いつかなかった。

 操縦席は非常に暗く、古い印象の書体で色々と書かれたスイッチ類だけがかろうじて見えた。運転手がいるであろう部分は暗闇に侵食され、よく見えない。僕は窓にへばりつき、背伸びして、線路を走る振動で小刻みに動く体を手すりで抑えながら、必死に中を覗こうとした。

 硬そうな椅子が見えた。

 不可解な形状のハンドルが見えた。

 そして、

 運転席には誰も、いなかった。

 しかし、それでも列車は走り続けている。一つ目の妖怪のようなヘッドライトを照らしながら、黙々と、ただ黙々と一定の速度で、どこまでも続く闇の中を疾走している。

 この列車は___________


「誰もいなかったでしょ?」

 背後からいきなり、くすぐるような声がした。

 僕は驚きのあまり、しゃっくりのような声を上げた。手すりを掴む腕がざわざわとあわ立つ。そして、恐る恐る振り返る。

 暗闇の通路に、人影があった。逆光で姿が良く見えないが、つい先ほどまで誰もいなかったはずの通路に、その姿は確かにあった。

_________ あなたが気づかなかっただけ

 食堂車で会った異国風の女性の言葉が、脳裏に過ぎる。

「そこ、誰もいないんだよ。私もさっき見たんだ」

 人影はそう言いながら、ゆっくりと近づいてくる。すらりと細い、冬の木の枝のような足が見えた。ぺたぺたとサンダルの音が聞こえる。裾の広がった柔らかそうな白いノースリーブが振動でふわふわと揺れ、ショートパンツが見え隠れした。

 僕より少しだけ背が高いくらいのその細いシルエットは、間違いなく最後尾で見た少女のものだった。僕の額は熱を帯び、汗が頬を伝って顎から地面にぽたりと落ちる。

「ねえ、そんな怖い顔しないでよ」

 彼女はポニーテールをさらりと揺らし、優しく囁く。

「私の事、分る?」

 気がつくと少女は僕の目の前まで来ていた。透き通った黒い瞳が僕を捉える。

「私の名前、分る?」

 その時、少女の瞳の中に轟々と流れる美しい川と、眩しい緑が映った。夏草の匂いがした気がした。

「…千夏ちゃん」

 僕は彼女を思い出した。

─────────────────
                     
 浅田千夏(あさだちなつ)は祖父母の家の二軒隣に住む少女で、僕より一つ年上の小学五年生だった。

 周りの女子達よりも勝気で負けず嫌いだった彼女は、いつも男子達に混じって飛び込み勝負をしていた。相手が六年生だろうと中学生だろうと怖気ず、言いたいことを言える彼女はどんな男子よりも雄雄しく、格好よく見えた。

 だが、僕が一人浅い川岸で小石遊びをしているのを見つけると、いつも一緒に付き合って遊んでくれるのもまた、彼女であった。

 家が近い為か家族同士での付き合いが昔からあり、幼い頃の僕のことをずっと見てきているからだろうか。まるで実の姉のように面倒見がよく、いつも僕の事を気にしてくれる女の子だった。彼女には僕より幼い弟と妹がいるが、彼女にとって僕もその中の一人のような感覚なのだろう。僕も彼女のことが大好きで、いつも田舎から帰るときには千夏ちゃんも来ればいいのに、と駄々をこねたものだ。

 そんな千夏が今同じ列車の中にいるのは、実に不思議な気分だった。どうして祖父母の田舎にいるはずの彼女がこの列車にいるのだろう。

「悠くん、久しぶり」

 彼女は昔から変わらない呼び方で、僕を呼んだ。

「悠くんはひとりなの?翠おばさん達は一緒じゃないの?」翠(みどり)おばさん、と僕の母のことだ。千夏は母とも随分交流がある。

「お母さん達は来れないんだってさ。兄ちゃんと二人で来たんだよ」

「お兄ちゃん?」

「そう、兄ちゃん」

「お兄ちゃんか…」

 千夏は目線を斜め上にやり、何か考えるような顔をした。そういえば千夏と兄はあまり交流が無かったような気がする。彼女が僕と遊んでくれる時は大抵僕が一人でいるときであったし、そもそも兄は田舎の子供達と遊ぼうとしなかった。田舎自体に来ない事も多かったため、千夏の中で存在が薄いのも無理は無いのかもしれない。

「千夏ちゃんこそどうしてここにいるの?」

 僕達がここにいる以上に、彼女がここにいる事の方が不自然だ。

「家に帰る途中だったんだ」千夏は腕を後ろに組んで答える。

「どこか行ってたの?」

「うん。転校しちゃった友達がいてね。一人で会いに行ってきたんだよ」

 転校した友達。そういえばいつか彼女がそんな話をしていた気がする。一番の仲良しだったのに、と切なそうな目で話していたのをふと思い出した。千夏は男の子の友人が多かったから、その友人も多分男の子だろう。

「だから、悠くん家のすぐ近くまで行ってきたんだよ。電話すればよかったね、ごめん。でもびっくりしたよ、まさか同じ電車に乗ってるなんてさ! ねえ、おじいちゃんの家に行く所だったんでしょ?」

 僕が頷くと、彼女は嬉しそうに笑いながら僕の肩を叩いた。

「よかったー! じゃあ一緒に乗っていけるね! 悠くん達の席は何処…」

「あ、あのさ、千夏ちゃん」

 僕は彼女の話を遮る。楽しい雰囲気を中断するのは心苦しかったが、僕は気になって気になって仕方なかったのだ。

「あの、「僕の家のすぐそば」って事はさ」

 僕は確認するようにゆっくりと喋り、加速する心臓音を胸に感じながら恐る恐る尋ねる。

「千夏ちゃんは…〝どこ〟からこの電車に乗ってきたの?」

「だから、悠くん達と同じ駅のはずだよ」

「名前は? その駅の名前は!?」

 僕は思わず強い声でそう叫ぶ。自分の声が反響して通路に響き渡った。

「〝どこ〟ってそれは…」

 元気だった千夏の顔から、徐々に血の気が無くなる。

「あれ… なんで…?」

 彼女が俯くと、顔の影が増して表情が見えなくなる。そして、彼女らしくない弱弱しく震える声で、呟いた。」

「悠くんは…〝どこ〟か、思い出せる…?」

 彼女もまた、僕達と同じ境遇だった。

 気がつくと僕の目からうっすら涙が流れていた。それは解決手段を絶たれた絶望からなのか、同じ悩みを持つ仲間に出会えた喜びなのか、分らない。

 ただ、僕は今ここで千夏に会えたことが、本当に嬉しくて幸せだった。祖父母の田舎で一番会いたかったのは彼女であり、兄と同じくらい僕の中では重要な存在だったのだ。そんな彼女が今自分と同じ状況で、そばにいて一緒に解決しようとしてくれているのだ。

 これで、千夏と兄の事だけは確実に記憶に留めていられる。

 この二人がいれば何も怖くないとすら思った。

─────────────────
                     

 千夏と共に三号車へ戻って席に座ると、兄が口をへの字にして、足音を強く立てながら戻ってきた。後部車両をくまなく探したが誰もいなかったらしい。

 僕の隣に当たり前のように座っている千夏の姿に兄は随分驚いていたようだが、平静を取り戻すのは僕より早かった。兄と千夏はお互い今まで接点が無かったせいか、あまり会話が弾まない様子だった。

「そう、私もね、何か変な電車だなあって思って。駅員さんに聞いてみようと思って探してたんだよ」

「千夏ちゃんも切符持ってかれちゃったんでしょ?」

「多分ね。気づいたら無かった。二人が言うように、駅員さんが持ってたんじゃないかと思う」

 そしてその駅員どころか運転手も不在で、列車は完全に無人の状態で今も走り続けている。

背筋に悪寒が走った。扇風機の廻る音ですら、今は怨霊の呻き声に聞こえて不気味でしょうがなかった。

 三人は黙り込み、お互い誰かが何か提案するのを伺っていた。

 

「そりゃあ、切符屋の仕業だな」

 通路側から声がした。

「駅員みたいな格好の奴に盗られたんだろう? それが切符屋だよ」

 声の主は、通路を挟んだ向かいの座席に一人座る男だった。裸足を椅子に投げ出し、荷物をボックスシート全体に拡げてまるで自分の部屋かのようにくつろいでいる。だらしなく伸びた髪と無精髭のせいで老けて見えるが、良く見ると父よりはだいぶ若いようだ。

 この男も、さっきまでは居なかったはずだ。

「切符屋?」

 真っ先に僕が身を乗り出して声を上げる。

「知らねぇかい? 切符屋ってのは、切符を拾ったり盗んだりしちゃあ裏で売りさばいてる連中の事だ。君らみたいな初心者を狙ってな」

 男は雑に伸びた髭を指で撫でながら語る。少しアルコールの匂いを感じた。

「何それ! 最悪!」

 正義感の強い千夏が、拳を握り締めながら怒りの声を上げる。突然の大声に、周囲の乗客が一瞬こちらを向いた。僕は盗難というものに初めて遭遇した事自体に驚きと恐怖が隠せなかった。

「とにかく、駅員みたいな奴っつったらそいつらで間違い無ぇだろうよ。なにせここは無限夜行だ。この列車に駅員なんているはずない」

「む…げん?」

 よく聞き取れなかったので、僕は聞き返す。

「無限夜行。この列車の名前だよ。夜から夜へ、勝手に気まぐれに何処までも走り続ける」

 男は、列車全体を見渡すように目を細めながらそう言った。

 無限夜行…そういえば、乗る時に見たプレートにそんな感じの文字列があったのを思い出す。あれは、この列車の名前だったのか。

「勝手にって… どこに行くのか全く分らないって事!?」

 千夏はさっきの怒りをまだ引きずっているのか、言い方が強い。だが彼女の押しの強さは僕にとっては心強かった。

 駅員も運転手もいないまま勝手に走る、幽霊のような列車。どう考えたって納得できる話ではないが、改めてはっきり断言されると少し気が落ち着いた。

「まあ、勝手とはいっても一応法則が無いわけではないんだよ。なんていうか…この列車は、乗客が降りたいと思ってる場所に向かってくれるんだ」

「え、じゃあ、」

 思いがけない朗報に僕が顔を明るくさせると、男は苦い表情で黙り込む。

「ああ、切符か」

 男の代わりに答えたのは、今までずっと黙って腕を組んでいた兄だった。

「切符が無いと降ろしてくれないって事なんだろ?」

 兄が低く鋭い声でそう言うと、男は黙って頷く。

「で、でも、切符が無くたって、僕達はおじいちゃん家に行きたいって思ってるんだよ。それでも駄目なの?」

「君、そのおじいちゃんの家が何処にあるか分るか? 地名は? 駅の名前は?」

 何も答えられなかった。

 〝おじいちゃんの家〟という言葉だけが宙に浮かんでいて、それ以外に何も浮かばない。思い出せない。冷や汗が止まらなかった。

「切符を失くすと記憶も失くすって事なんだろ。行く場所も、帰る場所も」

 兄は終始落ち着いた声でそう言い放つ。

 だったら、だったら僕らはこれからどうすればいいのだろう。

 このままずっと、永遠に列車の旅を続けなければならないのか。

 小さな羽虫が、黙り込む僕らの周りをあざ笑うように飛び回って奥へ消えた。相変わらず扇風機だけは、素知らぬ顔でのんびりと風を回していた。


「…無いわけじゃあ、ないよ。切符を取り戻す方法」

 数分の沈黙を破った男の言葉に、僕らは同時に顔を上げる。

「この先に大きな市場街があってな。多分、列車はそこに停まる。降りる人がいつも多いんだ。あの辺に乗ってる人等は間違いなく市場行きだろう」

 周囲を見渡すと、確かに商売道具らしき大きな風呂敷を持った人々が見えた。

「そこに、切符屋の店がある」

「じゃあそこに行けば…!」

 僕は零れ落ちんばかりに体を乗り出す。

 男はくすんだ青い瓶の底に残った酒をくいっと飲み干すと、僕の方に首を向けて少し微笑んで言った。

「君らの切符を盗った奴は、おそらくそこに切符を引き渡しに行くはずだよ」

──────────────────
続く

著 宵町めめ(2009年)
note掲載版は、文章を原作版、絵をノベルゲーム版としたものです。

投げ銭、心と生活の糧になります。大歓迎です!!