わたしと信仰の本当の出会い
紆余曲折はありながらもわたしは、わたしなりの人生を真っ直ぐに歩んでいるつもりだった。
しかし、わたしはある日を境に障害者となった。わたしの障害は目には見えない。わたしの心の中に渦巻いており、わたしと社会との間に障害を作っている。
数年前からわたしは、「苦しい」と思っていることや消化しきれぬ悩みを誰にも話せないでいた。それは、わたし自身の問題であって、助けを求めるべきことではないと思っていた。
心の中に溜まったどろどろとした感情が、心では対処しきれなくなって、身体に現れた。
それでもわたしは、自分が我慢すること周囲の人に迷惑をかけないことを選んだ。
いつのまにかわたしは、どん底にいた。もう自分自身の力だけでは這い上がることは出来なかった。
自分の身体を傷つけること、自分の心を殺すことに逃げて、どうしようもないところまで落ちて行った。
それまでわたしの頭にあったのは、「自分の問題は自分で解決すること」、「誰かのために心を捧げること」だった。
自分軸が全くなかったのだ。誰かのためになること、嫌われないことが全てであってそのためには、自分を押し殺すことが当たり前だった。
けれど、わたしの心は、身体は、それに抵抗していた。それなのに、わたしはそれを無視し続けた。誰かのためになっている自分こそが価値のある存在だと思い込み続けていた。
人目を気にしすぎてその人にとって良い人間であろうとするわたしは、機能不全に陥った。
そんな時、わたしに手を差し伸べてくれたのは神様だった。家族や友人に姿を変えた神様がわたしを救ってくれた。
その手を取ったわたしは今、他人にとって良い人間であることよりも、いつもわたしのそばにいて下さる神様にとって良い人間であろうと思う。
自分を、家族や友人を傷つけることは神様はお喜びにならないはずだ。自分を押し殺してまでも誰かに尽くすことを神様は正しい在り方ではないと思うはずだ。
いつもわたしのそばにいて、見守って下さる神様にとって、恥じない生き方をしようと思う。
苦しい時も、自分の中にどろどろしたものが渦巻いている時も、神様は共にいて下さるのだから、迷いがある時は、神様に問いかけてみる。
自分を超越した神様という存在があることで、わたしは自分が楽しいと感じることにも心地よくあろうとすることにも罪悪感がなくなった。
自分の中に神様という大きな存在を取り入れることで、わたしはわたしを受け入れることができた。
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