「温室にて」その1

旧作の改訂版です。
今度のも2代目のぼんぼんが主役です。
ワンパターンだね。w




「まあ、綺麗。」
天井から吊り下げられた木枠に太い根で絡みついた、いかにも熱帯性らしい大輪の花々を見て、麻子は感嘆の声を上げた。
「これは何ていうお花?」
麻子は振り返って訊いた。硬かった表情がようやくほぐれかかっていた。
「バンダ。そいつは蘭の中でも特に低温と乾燥が嫌いでね。普通の部屋だと長もちしないんだ。鑑賞するには、めんどうでもここまで来なくちゃならない。」
園部は麻子の変化を認めて少し饒舌になった。
「ただ見るだけじゃつまらないから、お茶ぐらい飲めるように、ガーデン・テーブルを運び込んである。人間にも居心地が良いからね、ここは。休みの日なんかは、この中でブランチを食べることだってある。」
園部はウッドの小さな丸テーブルの方を指さして言った。
「今日はハーブ・ティーを用意してあるんだけど、どう? もちろん、我が家で収穫したやつだよ。」
「えゝ、いただきます。」
 二人は奥の方に歩を進めた。麻子の黒いロング・ブーツの踵がレンガ色の敷石の上で硬質の音を立てた。園部はその響きの意外な重量感に動悸を覚えた。
 
 園部はとある地方の中核都市で不動産業を営んでいる。店は父親が創業したものだ。父は短時日で近隣の都市に支店を数軒出すまでに事業を拡げた。数年前に父が他界し、一人っ子の彼がそれを引き継いだ。母は病弱で父の生前からずっと入院したままだ。40歳を目前にまだ独身の彼は、父が遺した大きな屋敷に一人で暮らしている。
 園部の表向きの趣味は洋蘭栽培だ。広大な庭の隅に70坪もある本格的な温室を建て、およそ日本国内で入手できる優良品種のほとんどを育てている。
三ヶ島麻子は半年ほど前から園部の店で事務員として働いている。昨年、夫に先立たれ、幼子を抱えて途方に暮れていたところを、園部が雇い入れてくれたのだ。

 夫の死因は自殺だった。地方銀行の敏腕営業マンで、将来を嘱望されていたが、顧客の預金を無断で運用して失敗し、露見する寸前に自ら命を絶った。横領した件数は地銀としては類を見ない数だったのである。もちろん額も。事件は、当然ながら、各種メディアで報道された。麻子は犯罪者の妻になってしまった。
 麻子にとって不運だったのは、自殺のわずか数ヶ月前に夫名義で多額のローンを組んでマイホームを購入していたことだった。住宅をローンで購入する場合、普通、債務者の死亡時に保険で残債を清算できるように生命保険に加入する。麻子の夫も加入した。だが3年未満の自殺は免責になってしまう。それに自殺者が出たいわく付きの物件が高く売れようはずがなかったから、マイホームを手放しても多額のローンが残った。

 その頃、園部は、結婚退職した事務員の後釜を探していた。求人に応じて訪れたのが麻子だった。園部は麻子を一目見て、採用を決めた。
 履歴書には27歳と記されている。子供もいるという。しかし、やや疲れた感じは覆い隠せないまでも、実際の歳よりはずっと若々しかったし、不幸な運命に弄ばれている一児の母とはとても見えなかった。何より園部を魅了したのは、麻子の伸びやかな肢体と豊かな長い黒髪だった。元銀行員というのも捨てがたかった。
 
 園部が麻子のプライベートな面について知ったのは比較的最近のことだった。きっかけはこうだ。

 麻子は、ローンの返済の他に、今借りているアパートの家賃と娘の保育費を支払わねばならず、家計は極端に苦しかった。夫との死別後、家計は一度も黒字になったことがなかった。
 頼るべき親兄弟もいなかった。自分の方にも、夫の方にも。収入を増やすために夜のアルバイトを始めてみた。けれども、3日ももたなかった。麻子はアルコールがだめなのだ。勤まるわけがなかった。
 進退窮まって消費者金融からいくらかの金を借りてしまった。返す当てはなかった。元銀行員だけに、それがどういう意味を持つかは経験でわかっていた。返す当てがないままに、借金はどんどん増えていった。
 麻子は悩んだ末に園部に相談した。勤め始めてまだ半年しか経っていないのに借金の相談をするのは辛かったが、頼れるのは園部しかいなかった。
 園部からすると、その相談は絶好のチャンスだった。麻子との関係を深めるための。園部は極力寛大で慈悲深い雇い主を演じようと努めた。

「わかった。貸しましょう。でも、返す当てはあるのかな?」
麻子は返事に窮した。
ここが攻め処と園部は言葉を継いだ。
「差し出がましいようだけど、もし良かったら、私に援助させてもらえないだろうか?」
“援助”という言葉に麻子は身を堅くした。しかし、自分の置かれている立場を思うと、ここで園部の申し出に首を横に振るわけにはいかない。
「うん、援助と言っては誤解されちゃうな。今手元に200万ほどある。それを自由に使ってほしい。ただし、これは貸与であって、贈与ではない。だから、いつか返せるようになったら返してもらいたい。利子はいらない...どうかな、そういう条件で。」
麻子はすぐには答えられなかった。長い沈黙が続いた。
「あたしはどうすれば良いんでしょうか?」
麻子はやっと口を開いた。一番肝心なことを訊かないわけにはいかなかった。
「どうすれば? 別に条件なんてないよ。ただ、うちの店で一生懸命働いてくれれば良い。それだけだ。」
園部にはものごとをストレートに言う度胸が無い。肝心なところで、話をはぐらかした。麻子はただ黙って頭を下げた。
 
 この日、園部は初めて麻子を自宅に呼んだ。麻子は幼い娘を連れて行ってかまわないか、園部に問うた。園部の答えは、「もちろん歓迎する」というものだったが、麻子は園部の招待の意味を考えて、あえて娘は連れてこなかった。それだけの“覚悟”を麻子はしていた。
 園部が麻子を母屋に招じ入れる前に、温室に案内したのは正しい選択だった。温室と言えば、普通の人は飾り気の乏しいガラスの建屋を思い浮かべるだろうが、園部が丹精して作り上げた温室は、中央に立つとガラスの壁が視界に入らないように植栽が工夫してあり、その1本1本に色とりどりの大型の蘭が根を絡めて花を咲かせており、その美しさは空想上の極楽を想わせた。この世のものとは思えない美しさは硬くなっていた麻子の心と身体を解きほぐした。
 
「あれは花壇?」
レモングラスとカモミールのブレンド・ティーが半分残ったガラスのカップをテーブルの上に置くと、麻子は温室の入り口とは反対の方を見ながら何気なく言葉にした。
「あゝ、あれ? ちょっと来てごらん。」
園部は、すべてが自分の思い通りに展開していることに心を躍らせながらも、それを麻子に悟られないように努めて平静を装いながら、ガーデン・チェアから腰を上げた。
 麻子が目を留めたのは、温室の奧の一角に設置されたコンクリート製らしき構造物だった。遠目には、それは高さ60センチほどの低い壁のように見えた。華やかな温室の中では明らかに場違いな存在だった。近づいてみると、それは幅5メートル、奥行き1メートルほどの細長い形をした大きな花壇であることがわかった。ただ、上部を網戸のような細かいネットで覆ってあるのが花壇らしくない。温室の中故、害虫の心配は無いはずだ。上からのぞくと、濃い褐色の土のようなものが見える。
「堆肥....かしら?」
「そう。肥料としても使ってる。でも、ただの堆肥というわけじゃない。よく見てごらん。」
麻子は、腰をかがめて、ネットに顔を近づけた。目をこらして中の様子をうかがう。
「何か動いてるみたい。」
土の表面がゆっくりと盛り上がり、ひび割れ、やがて下から何かが這い出してくるのが見えた。
「えっ! 虫? カブトムシなの? 真冬なのに! あっ、そこにもいる。あそこにも!」
麻子は子供のように無邪気な声をあげた。
「驚いた? この孵化装置は温水パイプを底に通してあってね。いつもだいたい25度ぐらいに保ってるんだ。だから1年中カブトムシが生まれるんだよ。」
「へえー、すごい。これだけ広いと、ずいぶんたくさん生まれるでしょうね。どうするんですか? もしかして売ったり、とか?」
「いや、売ったことはないな。ほとんど知り合いのマニアにあげちゃってるね。もちろん、ただで。いくらでも欲しいって言うんだよ。特に、お店で手に入らない今頃の季節は。その人は一度に何十匹も持っていくよ。大喜びでね。」
「昆虫マニアさんなんですね。その方。」
園部はなぜかここで一瞬言葉に詰まった。
「いや、マニアはマニアでも昆虫マニアとは言えないな、彼は。」
「?」
「彼はカブトムシを飼うわけじゃないんだ。」
「???」
麻子は、園部の言っていることの意味がわからなくなって、黙って園部の目をのぞき込むように見つめた。
「そろそろ、リビングの方へ行こうか?」
園部は、麻子の返事を待たずに、温室の出入り口の方に歩き出した。 麻子はごく自然にその後を追った。
 
「これは友人が撮った動画だよ。」
30畳はあるという広大なリビングの真ん中にセッティングされたAVシアターの前で操作をしながら、背後の麻子に説明した。
「動画? お花のかしら?」
麻子は独り言のように呟いた。腰掛けたレザーのソファーが柔らかすぎて、埋もれてしまいそうだった。
 園部がディスクをスタートさせた。
――フェイド・インでドアが写し出される。どこかのクラシック・ホテルだろうか。マホガニー製らしい赤茶色の重厚なドアだ。しばらくの間、画面にはまったく変化が現れなかった。しかし、それが静止画像でないことは、ゴーッという風の音のような微かなノイズが聞こえていることからわかる。
 30秒も経った頃、ドアがゆっくりと内側に開いた。カメラがやや性急にズームし、ドアの下の部分をアップにする。
 開いたドアの向こうから、黒いパンプスが現れた。アーモンドトゥのプレーン・パンプスだ。ヒールは太からず、細からず。高さは9センチぐらいだろう。履き手の人物が部屋に入り、ドアを閉めるためにターンした時、アーチの形状がはっきりと見えた。その部分だけがベージュで、黒と鮮やかなコントラストをなしている。深みのある色だ。靴底もレザーらしい。
 次の場面では、人物の全身を見ることができた。20代後半ぐらいの、おそらく麻子とそれほど歳が違わないであろう若い女だ。
――どういう女性(ひと)かしら?
麻子はわけも無く好感より敵意に近い感情を抱いて女を見た。
 ピンストライプの入った濃紺のダブル・ブレストのスーツを慣れた感じで着こなし、かるくウェーヴのかかったロング・ヘアをかなり明るいブラウンに染めているところを見ると、あまりお堅い仕事をしているとは思えない。
――コンパニオン?
園部の店に来た顔ではない。少なくとも、麻子が勤め始めてからは。
 女はヒールの音を響かせながらフローリングの床をゆっくりと歩いている。カメラはその足元を前から、後ろから、右から、左から追っている。
10秒。20秒。 ....


続く



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?