「温室にて」その2

3か月もご無沙汰してしまいました。
続きです。
「女神の踏石」へのオマージュが織り込まれているの、わかりますかね?


――いつまで歩いてるんだろう?
 
麻子がそう思った次の瞬間、画面に小さな黒い固まりが写ったかと思う間もなく、上から女のパンプスが降りてきて、バキッという目の覚めるような破壊音とともに、それを踏み潰してしまった。いや。踏み潰したというのではない。歩いたのである。小さな物体の上を。歩いていて、たまたま足を踏み降ろす場所にゴミのような物があっただけで、避けるのも面倒だから、そのまま上を歩き、そして去った。そういう感じである。
 ほんの一瞬だったが、麻子には、女の靴底で踏み潰された物の正体をはっきりと認めることができた。
 
「まさか....社長、これは?」
 麻子は説明を求めるように園部の方に顔を向けた。園部は黙って頷いただけで、画面を見るように目で促した。麻子は少し困ったようにモニターに視線を戻した。その麻子の横顔を、園部は、表情のどんな小さな変化も見逃すまいというように凝視する。
 
 タイトルが写し出される。英語のタイトルだ。
“Goddess in High Heels”
しばらくして日本語のタイトルに切り替わる。
“女神のハイヒール”



 タイトルが消えると、場面が替わり、樹脂製の小さな虫かごが大写しになった。フォーカスがかごの表面に合っているせいか、中はよく見えないが、カブトムシがたくさん詰め込まれているらしい。オート・フォーカスからマニュアルに切り替えたようで、すぐに中の様子がくっきりと見えるようになった。カブトムシが全部で10匹ぐらいいるだろうか。腐葉土に混じった木片にしがみついているもの、互いに足を絡め合ってもみ合うようにしているもの、その間をかなりのスピードで移動するもの。あれやこれやで正確な数はいつまで見ていてもつかめない。
 
 カメラが少し引いた。かごのすぐ傍にパンプスを履いた女の足があった。カメラが女の足から脚、脚から腰、腰から胸、胸から顔と舐めるように這い上がる。
 次の場面で女が何をするのか、麻子にも予想できた。自分と同じような年頃の女がなぜそんなことを平然とするのか、信じがたい気持ちだった。何のために、どんな気持ちでそれをするのか? ちょうど園部が麻子を見つめているように、麻子は女の内面を推し量ろうと画面の顔に見入った。
 しかし、カメラはそんな麻子の心の動きを無視して顔から足元へと戻っていく。
 
女の足が無造作に上がり、虫かごの上に降ろされる。女は足を乗せる場所の強度を確かめるかのように、場所をずらしては軽く体重をかけている。2度。3度。ねらいが定まったようだ。今度は先ほどまでとは較べものにならないほどの強い力で虫かごを踏みつける。ミシミシという音を立てて、蓋が歪み始める。ミシッ、ミシッ、ピシッ! 蓋の歪みが限界に達して陥没する。ベキッ!さらに深く沈み込む。中のカブトムシは、まだダメージを受けてはいないが、動き回るスペースはだんだんと狭められていく。
 日常からあまりにかけ離れた世界を見せつけられて、麻子の神経は次第に鈍磨し、ついにはすぐかたわらにいる園部の存在すら忘れたかのようになってしまった。
 
 画面の女は容赦なく小さなかごにかける体重を増していく。女の履いているパンプスの靴底はプラケースの底に着かんばかりになっている。やがて女はかごを踏みつけているのと反対の足を宙に浮かせた。女の全体重を受けた虫かごは、真ん中の部分が完全に潰え、蓋までがほとんど床に接していた。もはや両サイドが少しばかりの厚みを残すだけだ。20秒ほど我慢して片足立ちを続けた女の体勢が崩れた。それをきっかけに、女は残っているかごの両サイドのスペースを潰しにかかった。
 
 まず、右足ですでに潰れている真ん中を押さえ、左足を左サイドのスペースにあてがい体重を移す。バリバリッ! さらに、左足をそのままに右足を右サイドのスペースの上に踏み降ろす。ベキベキッ!
 
 その時、カメラは女の表情を大きく写し出した。女は口元に影のような笑みを浮かべているだけで、ほとんど無表情だった。麻子の好奇心は肩すかしを食わされた。
 
――こんなすごいことやってるのに、何で無表情なのかしら。
 
 麻子の中で何かが起こっていた。女が最初のカブトムシを潰し去るのを見た時には、嫌悪と義憤の入りまじったような反発を、ビデオの女とビデオを撮った園部の知人なる人物に、そして園部自身に対して強く感じた。だが、今はカブトムシを踏み潰すという、しかも女性らしさをことさら強調した大人の女が踏み潰すという不思議なパフォーマンスの醸し出す怪しげな力に魅せられてしまったかのように、先ほどの気持ちを忘れてしまっている。気分が昂揚しているのは確かだ。だが、それは反感ではない。
 相変わらず画面には視線を足元に落とした、口元だけで笑っている女が写っていた。今や完全に潰れてしまったかごの残骸の上で足踏みをしているらしい。女の肩がリズミカルに揺れ、それとともにバリッ!ベリッ!という音が聞こえる。今度は潰れたかごを踏みつけたままツイストしているようだ。身体が左右に振れている。プラスティックとリノリウムの床が擦れる刺激的な音が耳を突いた。
 
 園部はビデオを止めた。麻子はブラック・アウトした画面を見つめたままだ。息がはずんでいる。
 
「どうかな。」
少し間を置いて、園部が切り出した。
「軽蔑するかな。私のことを。こんなものを見せたりして。」
麻子は黙って園部の目を見つめた。
 
「率直に言うと、私は貴女に協力してもらいたいんだ。今のビデオの女性のようにね。」
園部は勇を鼓して告白した。麻子は何か言おうとしたが、園部はそれをさえぎって続けた。
「いや、終わりまで聞いてほしい。私はただお願いしているわけじゃない。これはいわば交渉事だよ。貴女も今日はそのつもりでここに来たはずだ。この前用立ててあげたお金だけど、返す見込みは今のところ無いんじゃないかな? それでは貴女も困るだろうし、私も困るから、お互いのために貸借関係を清算する手立てが必要だ。私はそういうものとして提案しているつもりなんだけどね。どうかな。手伝ってもらえれば、あのお金は返してもらったことにするけど。」
園部がそこまで言うと、麻子の表情に微妙な変化が起きた。
 
「どうだろう。今から1年間、毎月1回ここに来て、ビデオ作成の手伝いをしてもらうということでは。」
 麻子はすぐには答えなかった。内心、断るにはあまりに魅力的な条件だと思っている。ここに来るまでは、あることを予想して覚悟していたが、そのことに較べればまったく取るに足らない負担である。少なくとも、肉体的には。
 もともと小動物や昆虫の類に対するアレルギーは麻子にはなかった。小学生の頃のことだが、男の子がふざけて投げつけたぴんぴん跳ねるトカゲの尻尾を、平気で掴み、ちぎってしまったことがある。他の女の子たちは逃げ回ったのに。理科の時間に魚の解剖をした時など、同じ班のもう1人の女の子は気分が悪くなって保健室に連れていかれたというのに、麻子の方ははばらばらになった臓腑をピンセットでつまみ上げ、隣にいた男の子の鼻先に突きつけて悲鳴を上げさせるほどの余裕ぶりだった。虫など麻子の臆するところではない。
 だからと言って、二つ返事で園部の提案を受け容れてはいかにも卑しいようで、プライドが許さない。
――私はあの女とは違うんだから。でも、このチャンスは逃したくない。プライドを損なわずにこのチャンスを掴むには....それには、もっとじらして、社長を自分の足元に跪かせ、「どうかお願いです」と哀願させなければ....
 
「女として....女として愛してくださるならともかく。私が弱い立場なのを良いことに、こんなことを....」
 十中八九、麻子が“Yes”と答えるだろうと高をくくっていた園部は、継ぐ言葉を探し直さねばならなかった。この辺りの読みの甘さが今に至るまで園部が独身でいることを余儀なくされている原因かもしれない。それはともかく、園部としても、このチャンスを逃したくはなかった。何しろ、田舎のことである。特殊な要求に理解を示してくれる女性は簡単には見つからない。たとえ、見つけられても、アブノーマルな性癖が世間に漏れ伝わっては絶対にまずい。相手は誰でも良いというわけではないのだ。
 
「....すまない。確かに貴女の気持ちに対する配慮が欠けていたよ。お金の話を絡めるべきじゃなかった。」
麻子は園部の目を真っ直ぐに見据えている。園部は麻子の視線に堪えられず、伏し目がちになった。いつのまにか立場が逆転している。
「貴女はとんでもないことだと思うだろうけど、私はこういう特殊な形でしか生きている証を確認できないんだ。だから....だから、むしろ、私のことを哀れに思って助けてもらえないだろうか。」
「....」
「報酬なんかではなく、感謝の気持ちとしてできるだけのことはさせてもらうよ、もちろんね。」
主導権は完全に麻子の掌中にある。プライドは保たれている。この辺りが潮時だろう。
「そう....ですか。そこまでおっしゃるなら....」
麻子は、予想外の成り行きに少しとまどいを覚えつつも、予想は良い方にはずれたことになるわね、と心の中で打算した。
 
――フフフッ。虫を相手にするだけで200万、いえ、うまくすれば、それ以上になる....
麻子は、思わず笑みで顔が崩れそうになるのに気づいて、園部に悟られないように窓の方に顔を向けた。
「有り難う。正直言って、夢のような感じだよ。貴女に協力してもらえるなんて。」
園部は麻子の背中に向かって言った。
 
 次の休業日。麻子は再び園部邸を訪れた。娘は同じ年頃の女の子のいる旧友宅に預けてきた。
 園部の希望で、前回の訪問時と同じ黒皮のブーツを履いてきた。夫の生前のゆとりのある頃に買ったブーツだ。安物のカーフとは違ったコードバンを思わせるきめの細やかな光沢を放っている。形はごくオーソドックスで、やや丸みを帯びた上品な曲線のトゥ。ピンヒールとは言えないが、先端に向かって少し細くなっているヒール。そして、合皮ながらも工芸品のような意匠を施したソール。
 
 麻子の手には紙袋が提げられていた。一見、手土産のように見える。だが、そうではない。実は、これも園部の求めで用意してきた履き替え用の靴だ。
 玄関に入った麻子が上がりがまちに腰を降ろしてブーツを脱いでいる間、すでに園部の胸は破裂しそうなほど激しく脈動していた。
――このブーツが欲しいと言ったら、譲ってくれるだろうか?
麻子を奧に案内することも忘れ、園部の目は沓脱に置かれたブーツに釘付けになった。
 

「シナリオを書いてみたんだけど....」
園部は、例の柔らかすぎるソファーに腰掛けた麻子に分厚いA5の冊子を手渡した。麻子はぱらぱらとめくってみる。
「ちょっと読んでてくれないかな。コーヒーでも入れるから。」
 園部は居間を出てキッチンに行くと見せかけて、遠回りして玄関に出た。麻子のブーツがつま先を入り口に向けて置いてある。園部は居間の方をうかがってから、そっとひざまずき、ブーツの中をのぞいた。内側は赤みがかったブラウンになっている。質感から見て、内側も本革のようだ。顔を近づけ、鼻をブーツに突っ込むようにして、深く息を吸う。麻子は脂性なのか、強烈な臭いがする。頭の芯まで滲み渡るような感じがする。恐る恐る片方のブーツを手に取る。逆さにして靴底を見る。やや薄れてはいるが、“MADE IN JAPAN 24.5㎝”という金文字が見える。園部はソールの一番体重がかかり、すり減っている部分に唇を押し当て、ゆっくりと目を瞑った。
 
「ごめん。コーヒー・メーカーの調子が悪くて。手間取ったよ。」
園部は言わずもがなの弁解をする。
「これを全部暗記しろって言うんですか?」
麻子はテーブルに置いたシナリオを目で指しながら訊いた。
「いや、それはあくまで進行表みたいなもんで、セリフは別に用意するよ。カメラに写り込まないようなとこに置くから、それを見ながらしゃべればいい。」
園部の麻子に対する気遣いは徹底している。麻子はそんなことにはお構いなしに話題を変えた。
「何匹いるのかしら、今日は?」
「生まれたての元気のいい奴が30匹ぐらいかな。」
「全部使っちゃうわけ?」
「もちろん。30でも足りないぐらいだよ。」
「そうですよね。本気出したら、2分で終わっちゃうでしょうからね。フフッ。2分どころか、1分でも十分かも。」
「まあ、一度はそういうのもやりたいね。でも、今日は最初だからじっくりやらせてほしいな。じゃあそろそろ....」
園部はカップを置き、腰を上げた。
 
 
続く

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