「普通」って、なんだ? そんなことをよく考えるようになったのは、わたしの場合は長男が生まれてからだ。 なぜなら、長男の育児が全く思うようにいかなかったから。 子育てが始まってから、わたしの中の「普通」がガラガラと音を立てて崩れていった。 1歳半になると、母子手帳のチェック欄はまるで赤点覚悟の解答用紙みたいになってきた。 育児書なんて、理想論しか書いてないやないか!と早々に放り投げてやりました。ごめんなさい。 そんなわたしは、2歳検診で同じ月齢の子どもたちの様子に衝撃を受け
病気になってからの父と過ごした時間の中で、絶対に忘れたくない大切な記憶がある。母の付き添いなしで病院へ行き、わたしが代わりにレスパイト入院の手続きをした日のこと。 受付では障害者手帳や介護手帳を出しながら、現実を突きつけられる思いがした。母も毎回1人でこんな気持ちになっていたのだろうか。 父を病院に託し、さまざまな手続きを終えて家に帰る頃には、もう日が暮れはじめていた。父がいる病棟の明かりを、帰りのタクシーの中からぼうっと眺める。 これからどうなるんだろう…。 窓の外を見
今思い返せばちゃんと予兆があった。 「あれ?」と違和感を感じる瞬間。 でも、母とはこまめに電話やLINEで連絡を取り合っていたし、両親の状態ははある程度わかっているつもりでいたんだよ。 でも結局、会ってみないと気づかないことが多い。 だからもし、あれ?と思ったら、心配だったら、会いに行ったほうがいい。 そして数時間一緒に過ごしてみよう。 できれば一晩一緒に過ごしみると、いろんなことがわかる。 今日は、母がうつだ…と気づいた日の話。 最初の違和感は1本の動画だった最初にあ
子どもの頃、霊柩車を見たら絶対に親指を隠した。 そうしないと親が早死にするとか、死に目に会えないとか、そんな言い伝えを信じていたからだ。なんだかこわくて、霊柩車が見えなくなるまでいつも両手の親指をギュッと握っていた。今もあるのかな?そんな迷信。 そのおかげではないと思うけど、父の死に目に会うことができた。 親の死に目に会いたいですか? * 大切な人とのお別れのしかたは、学校では教わっていない。 友だちとも話したことないし、深く考えたこともなかった。 なんとなくドラマや映
十数年前、夫と結婚したとき、この人と一緒に親を看取る日がくるなんて想像もしていなかった。 命がもうあとわずかだという知らせを受け、なんとか間に合うようにと車を飛ばしてくれたあの日のこと、ずっと忘れないと思う。 父の最期は、穏やかだった。 呼吸器も点滴もなし。 なににもつながれず、とても自然な状態でその命を終えた。 延命治療をしない、という選択ができたことは、今でも本当によかったと思っている。 穏やかな死、というとどんなイメージだろうか。 すやすや眠っている間にスッと呼吸が
「お父さんがもし、人の手を借りないと生きられないようになったら、施設に入れてな。 そして、会いにこなくていいから。 見られたくない。」 祖母が認知症で入所していた施設の談話室で、父がわたしにそう言った。 今から20年近く前の話だ。 なんとも父らしいセリフである。 情けない姿は見られたくないんだろう。 下の世話をされる姿なんてもってのほか。 そんなことになるくらいなら独りの方がマシだ。 そしてさっさと人生を終えたい、ということだろうと理解した。 わたしは「わかった〜」とだ
父が大変なときも、ずっと家族の支えになってくれた存在があった。 実家の愛犬、ミルだ。 今日はそんな愛犬のことを書きたいと思う。 今から30年以上前のある土曜日の昼下がり、学校から帰ると玄関で父に呼び止められた。 そこには小さなダンボールがひとつ。 当時わたしは小学2年生だった。 「みさ、この箱の中見てみぃ」とニコニコしながら父が言うので近づくと「ガサガサッ!!!」と何かが動いた。 ドッキーーー!! 恐る恐るのぞいてみたら、まっしろでころころの仔犬がいるではないか。 生まれ
2024年がスタートして2週間たち、ようやくnoteを書いています。 今年は穏やかな年明けとはほど遠く、多くの人が心を痛めることになりました。みなさまはいかがお過ごしでしょうか。 たくさんの大切なものをあっという間に奪っていく自然災害。 目を背けたくなる現実がある。 それでも、この日本の土地で暮らしていく以上は、地震や台風などの災害とうまく共存していくしかなく、そのためには正しく理解し備える必要があります。 大きな災害が発生したときだけ備えるのではなく、日常の中でできるだ
「脳卒中」 たしか日本人の三大死因のうちの一つだと、昔なにかの授業で習った言葉だ。 自分には関係のない、遥か遠くにあった言葉。 正しくは「脳血管障害」というらしい。 患者数は決して少なくない。とくに70代男性のところは、患者数の棒グラフがぐんと高く伸びている。そんなことも、父が脳出血で倒れたあとに知った。 今まで遥か遠くにある病気だったから、なにも知識がない。 父が救急搬送されたあとも、この先どうなるのかまるで想像がつかない。先が見えず真っ暗だった。 そんなときはとにか
「妊娠した」とわかったその日から、出かけた先で急に妊婦さんが増えた。 あれ、不思議だよねぇ。 実際には、妊婦さんが増えたわけではない。 見えるものが変わっただけだ。 子どもが生まれたときも、イヤイヤ期で癇癪がひどいときも、同じような現象が起こった。同じ境遇の人たちが、やたら目にとまるようになる。 どうやら私たちは無意識に、見えるものを選んで生きているみたいだ。 だから、周りはこれまでと同じなのに、自分だけに変化が起きたとき、急に見える世界が変わる。 ある日、父が突然右半身
父に贈った最後のプレゼントは、Nikonのカメラになった。 人生初の入院と手術をなんとか乗り切った快気祝いと、コロナの外出自粛で会いに行けない父の日を兼ねて。 妹と2人で、これまでにないほど大奮発をしたのだ! その年に発売されたばかりのクールピクス(Nikonのデジタルカメラ)が欲しいというのは、事前のリサーチで知っていた。 9万円ほどのそれは、定年退職後の父にとっては手軽に買えるものではなかっただろう。少なくとも「お母さんに相談」が必要な案件。だから、プレゼントしたら絶
父はヘビースモーカーだった。 小さな頃はお父さんが煙草のせいで病気になるのがこわくて、「たばこをやめて」とお手紙を書いたりした記憶がある。 思春期以降は、煙草臭いというだけでなんだか少し腹が立って、なんでお父さんっていつも臭いのよ!と思っていた。 父の記憶はいつも煙草の匂いとセット。 煙草なんてやめたらいいのに、と思いながら、社会人1年目の父の日には胸ポケット付きのポロシャツを選んだ。 胸元に煙草とライターをぴたりと収めて、「ここにポケットがあるのがええのや」と言って嬉しそ
はじめまして。misaです。 「暮らしと備えのアドバイザー」という肩書きで活動しています。 インテリアが大好きで、”家事や掃除がラクになる便利な暮らし”をとことん追求したい派の整理収納アドバイザーが、ある日突然、震度6弱の地震を体験。それを機に、備えについても考えるようになり、防災士を取得しました。 日本各地で、暮らしになじむ防災講座(暮らしと備えの相談室)を開催したり、持ち歩きたくなるかわいい防災ポーチ(おまもり防災ポーチ)をオンラインショップで販売したりもしています。