慶應大学講義『都市型ポップス概論』12 【音楽プロデュースとは1】(こたにな々)
●文学部 久保田万太郎記念講座【現代芸術 Ⅰ】
『都市型ポップス概論』 第十二回目
----------------2018.07.06 慶應義塾大学 三田キャンパス
講師:藤井丈司 (音楽プロデューサー) ・ 牧村憲一 (音楽プロデューサー)
1970年代以前の ”レコード制作” はレコード会社の仕事だった―
レコード会社における歌手と楽曲を繋ぐ仕事は、本来はアーティスト&レパートリーを意味する ”A&R”と称されていたが、日本では ”ディレクター” と呼ばれていた。
「この歌手にどんなレパートリーがふさわしいか?どうしたらヒット曲が生まれるか?」それを担当するのが仕事であり、その一人にビートルズの5人目のメンバーとも言われた ”ジョージ・マーティン” がいた。
”A&R” という仕事はどんなにヒットを出しても、あくまで会社に所属するサラリーマンであり、ヒット作が出たにせよ、当然アーティストとの間にギャランティーを含めて、見返りの格差があった。そこでレコード会社に属さず、レコード制作を担当する ”音楽プロデューサー” という仕事が60年代後半から欧米で始まった。
日本から見て音楽プロデューサーの目標とされたのがジョージ・マーティンであり、エリック・クラプトンの『いとしのレイラ』をはじめ数多くのヒット曲を生み出したトム・ダウド、ウォール・オブ・サウンドを生み出したフィル・スペクターだった。
ビートルズは ”コンセプト・アルバム” という概念を生み出した。
それまではエルヴィス・プレスリーに代表されるように ”ヒット曲を集めてアルバムにする” という売り方だったのが、ビートルズも初期中期はそうであったが、ついには44分のアルバムを一つの作品とみなしたコンセプト・アルバムに辿り着いた。
そして、 ”アートワーク” の登場。
それらをアーティストと一緒に考え具体的にしていったのがジョージ・マーティンであった。
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音楽プロデューサーの仕事 (講師牧村憲一先生の仕事を例に)
①加藤和彦のケース
YMO以前に海外に挑戦し成果をあげた ”サディスティック・ミカ・バンド”
1972年デビュー。1974年にビートルズの「ホワイト・アルバム」にもプロデュース参加していたクリス・トーマスをプロデューサーに迎え、2ndアルバム『黒船』をリリース。1975年にはイギリスで人気だったロキシーミュージックの全英ツアーのオープニングアクトを務め、ツアー後に解散。
●サディスティック・ミカ・バンドが影響を受けたバンドの中のひとつ、 グラムロックの ”T.REX” 。
参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=aLT_jGrLD4c
ロンドンに行っていた加藤和彦はそこで ”T.REX” とデヴィッド・ボウイを観て大きな刺激を受け、帰国後グループ結成を試みる。
フォークシンガーだった加藤和彦がギター一本でやったのは『サイクリング・ブギ』という ”ブギ” だった。イギリスで最も流行っているT.REXのブギと、戦後日本で最も流行ったブギ、笠置シズ子の『東京ブギウギ』を意識した楽曲だった。
角田ヒロ、ミカとのサディスティック・ミカ・バンドが出来上がる―。
2006年に加藤和彦・高中正義・小原礼・高橋幸宏の4人に木村カエラを加えた『Sadistic Mica Band Revisited』としての再々結成の映像。
参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=HyNpr7Zyucs
なるほど!T.REXの「アハン」と『タイムマシンにおねがい』の「アハハン」は意識的?無意識?こうしたところに遊び心があるようだ。
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ミカバンド解散ソロ後、作詞家の安井かずみと結婚。
1979年から1981年に ”ヨーロッパ3部作” というコンセプトを持った3枚のアルバムをリリース。(推測だが、1977年2月に開館したポンピドゥー・センター国立近代美術館で開催された展覧会『パリ・ニューヨーク展』に訪れた夫妻がこのコンセプトに感動し、それをヒントにして制作に至ったのではないかと思う。)
参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=Yho8EutlqM8
同じ背景、同じコンセプトで作られたクロード・ルルーシュ監督による1981年公開の仏映画『愛と哀しみのボレロ』。ジョルジュ・ドンによるバレエのラストシーン。
参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=-tc-Kwyu8ic
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②大貫妙子のケース
大貫妙子が持つ資質、声を追及していくとアメリカ的な音楽より、ヨーロッパ的音楽が近いと思った。その一つのヒントはピエール・バルー主宰のフランスのインディーレーベル『サラヴァ・レコード』。ブリジット・フォンテーヌの『ラジオのように』。
参照リンク(音声のみ)https://www.youtube.com/watch?v=3WfVir1_Edc
ピエール・バルーの代表作の一つである挿入歌の作詞を担当した仏映画『白い恋人たち』の映像。オリンピックの記録映画である。
参照リンク:https://www.youtube.com/watch?v=MULkfc8UGa4
『男と女』『白い恋人たち』の主題歌、主題曲、映画音楽を作曲家フランシス・レイとともに担当し、ピエール・バルーは世界的な成功と、大きな収入を得た。その資金を『サラヴァ・レコード』の設立に当てた。普通のレコード会社が目をつけない歌手達にレコードを出すチャンスを与えた。
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1978年以降の2年の間レコードの売り上げが伸び悩んでいた大貫妙子は音楽活動を縮小しており、音楽をやめようと考えていたそうだ。しかし彼女の才能を失いたくなかった牧村先生はやめる前にもう1枚アルバムを作ろうと声を掛け、1980年大貫妙子のアルバムをプロデュースする事になる。
『ROMANTIQUE』大貫妙子
大貫妙子が作り出す音楽はメロディから始まり、詞へ、そしてサウンド。 その要のサウンド作りを引き受けたのが坂本龍一と加藤和彦だった。
同じような音楽観と技量を持った人達が集まって、特質のあるものを作ろうと至ったのが80年代だった。サディスティック・ミカ・バンドの切り開いた70年代があって、続いてYMOが発展させた時代があったことが、日本と世界のポップスの垣根を低くしていたのだ。
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(牧村憲一先生の)プロデュースにおける三要素
わかりやすく解説する。プロデュースをする際に頭の中に ”三角形” を思い浮かべてみよう。
●底辺には ”シンガーの核であるルーツ”
●高さには ”時代” 時代に逆らうと逆三角形の高さに。
●角度は ”歪み” ”デフォルメ” にも通じる。バランスの良い物を作る時には正三角形に、意図的に鈍角にも鋭角にもする事が出来る。
この思考と試行をアーティストに応用する事が牧村先生のプロデュースの源だった。
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さらに次回、具体的なプロデュースに迫ります!
https://note.mu/kurashi_no_nana/n/n7e2ddfe4d2d6
お読み下さってありがとうございました!
本文章は牧村さん及び藤井さんの許可と添削を経て掲載させて頂いています
文:こたにな々 (ライター) 兵庫県出身・東京都在住 https://twitter.com/HiPlease7
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