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カフェオレ・ボウルのこと

 「もののはずみ」で、カフェオレ・ボウルが欲しくなったのだった。

 それは偶然という意味でもあれば、堀江敏幸のエッセイの題名でもある。フランス人が朝食の席で、ジャムやらバターやらが塗られたパンを、椀の中にたっぷりと注がれたカフェオレの中に浸し、食べ進めるうちに油が浮きパン屑が浮き、甘味が足されてよくわからない飲み物となったそれを、食事の締めとばかりに腕の縁と底に二本の指を危うく引っ掛けてぐいと飲み干す、その椀こそがカフェオレ・ボウルであるという。

 堀江のこのエッセイを読んでから、わたしはこの、味噌汁の椀でもなければコーヒーカップでもない、カフェオレのための器に惹かれつづけてきた。それは時に堀江の本を読む時に、あるいは濃いインスタント・コーヒーの中に冷たい牛乳を注ぎ、猫舌にもちょうど良い温度にしてトーストを齧った口に含んだ時、ああわたしはカフェオレ・ボウルが欲しかったのだ、と、まだ見ぬ器の姿を心に浮かべた。

 それは例えば、金井美恵子が冷たいアボカドのスープを入れるというイタリア製の黄色い陶器の水差しのように、ぼってりと厚手かもしれない。あるいは、ポーリッシュ・ポタリーの光沢のある肌に、赤や青の大輪の花柄が筆の形もそのままに点々と描かれているはずだ。
 またそれは、もしかしたら壺のような形の、ブーツマグと呼ばれるものかもしれない。上の円筒形の部分と下のほおずきのような形の膨らみのある部分とで色が違い、原色系の補色となっている。しかしこれでは、マグカップであってボウルではない。趣旨が違ってしまう。だが指先まで猫舌のわたしでは、持ち手がなければ指をやけどしてしまう、などと思いをめぐらせつつ、二年が過ぎた。

 わたしには、何もしたくない時や何もできない時に本棚の目についた本を手当たり次第に読み返す癖がある。数ページ読んで飽きたら、放り出して違う本を読み出すので、机の横に本の山ができる。そのまま寝る。朝起きて片付けるべき本の山があるのにげんなりする。部屋を出ようとして山をくずし、ハードカバーの角が足の甲を直撃する。この繰り返しだ。
 その夜も、本をぱらぱらとめくっては放り、めくっては放りしていたところ、恩田陸『三月は深き紅の淵を』に突き当たった。一冊の本をめぐる四つの物語で構成される本書の、第二夜「出雲夜想曲」がわたしは好きだ。好きが高じて高校の後輩に、「私と出雲に行きませんか?」といきなり連絡をし、サンライズ出雲に乗ったこともある。本作は、二人の編集者、隆子と朱音が、出雲へ向かう寝台特急の中で、『三月は深き紅の淵を』という本の作者を推理する話だ。隆子はこの本の文章を断片的に覚えており、それが脳内に焼き付いている様をこのように表現する。

 「印象に残る作品っていうのは、どこか稚拙で完成度が低いけど、アクの強いオリジナリティのあるものの方でしょう。あたし、前に出張で岡山に行った時に奮発して大きなお皿買ったんです、表面に細かいひび割れがいっぱい入ったごつごつしたお皿。でも、最初にきちんと水に浸しとくとかしないでいきなり使ったら、その細かいひびに食べ物の色がーー何の色だったか忘れちゃったけど、染み付いて取れなくなっちゃって。洗っても洗っても駄目。あのお皿を見る度に、あの本を思い出すんです。ああいう感じで、あたしの意識の毛細血管の中にあの話が残ってる。」(pp.140,141)

 ふと、萩焼とはどんな器だったか気になり、よく見る雑貨販売サイトで調べていたところ、これが目に止まったのだった。「耳付きデザートカップ」と銘打たれてはいるものの、もとはカフェオレ・ボウルとして作られたようだ。むろん萩焼ではないが、外側は生成りがかった灰白色の地に灰色の縞が、赤土混じりの波だった地層のように刷毛跡を残して器を取り巻いている。内側は真っ白だが、黒子のような黒点が点々とついており、なんだか人の顔のようだ。そして、特に可憐なのは左右にちょこんと付いている小さな耳だ。ここに指を添えれば猫舌(手)でも大丈夫だろう。

 本来なら、古道具屋や雑貨屋の店先に積んである器の中から一つを選び出すはずだった。しかしこういうものは一期一会だ。躊躇わずに買い求めた。カートに入れて注文確定のちコンビニ振り込み、というのはあまりに無味乾燥で物語がないが、ここは仕方がない。
 数日して器が届いた。外側はおおむね画面上で見た通りだったが、内側の真っ白に見えた肌には薄桃色が、そこここでほんのりとけぶっている。上気した人の頬のようで、ますます可憐だ。
さっそく「作法」通りにカフェオレ・ボウルを使ってみる。白い肌に薄茶のカフェオレが映える。緑茶を入れれば薄桃色と若草色が山桜のような色合いを見せ、コーヒーを入れれば黒白の対比が引き締まる。猫は気に入った器であればたくさん水分を取るというが、私も猫よろしく毎日じゃぶじゃぶ飲み物を飲むようになった。口が広いと熱いものも早く冷める。猫舌にはうってつけの器だ。

カフェオレ(ミルクコーヒー)を入れてご満悦。


 家族から「猫のボウル」と呼ばれるようになったそれは、食器棚ではなく、いつもわたしの机の上に置いてある。出かける前に自分で洗って、机の上に置いておくのだ。隙があれば母にかぼちゃの煮物を入れられそうだからである。となると、留守の間に地震でもあって、机の上の諸々が器に降り注いだら一大事だ。消しカスだらけのデスクマットも拭かねばならない。そういうわけで埃が払われ紙屑が消え本の山が低くなり、机上の秩序が多少なりとも確立しつつある。

 器がとどいてからはや数日、それはリップクリームとマニキュアの間にてんと収まって、生活の容れ物と化したのだ。

神保町「ギャラリー珈琲店古瀬戸」のカフェオレ・ボウル。戦争が始まってしまった日に。

恩田陸『三月は深き紅の淵を』
金井美恵子『待つこと、忘れること?』「ヨーグルトの冷たい簡単スープ」
堀江敏幸『もののはずみ』

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