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本音と建前

ここ数年ずっと考えていて、浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していたことに一区切りというか、納得のいく考えに落ち着いたのでメモ。

◆◆◆

あきらかにそう思っていない。または、本心ではそう思っていないのに、
相手のことを考えたり場の空気を読んでその場に適したことを言うことに
意味があるのか?ということ。

私は物心ついたときから、言葉の裏を読んだり、相手の表情を無意識に感じ取って、その場に最も最適な振る舞いをしていた。
まぁ、別に嫌な空気にはならないし、自分はそう思ってなくても相手がいいならOK!という感じで別に何とも思ってなかったけど、
そうしていると、私が本当のことを言えなくて我慢していると心配してくれたり、勝手に私の代弁者みたいな役回りをしてくる人がでてきたり、
それはそれで面倒なことがあった。

大人になるとさらに社会人的な配慮も生まれて、
その場の最適解を考えて振る舞うことが増えたし、
その方が全体的にうまくいくので、そのほうがいい。
と、かなり最近まで思っていた。

でも、ふと思った。「本当に素の私のことを知っている人が誰もいないぞ」
「私は、この人に本当のことを言わなくて、誰に本当のことを言うんだろう」
そんなことを考えてしまって、途端に寂しくなって、怖くなった。
もう結構大人になってしまっているし、大人になってから友達を作るのは難しい。
本当のこと、本当に素の自分を見せたことのある人がいない人生って、
自分は間違った生き方をしてきてしまったのでは!??!?
もう時間は帰ってこないのに。どうしよう・・・・・

みたいなことを夜に考え出しちゃうと、思考が止まらなくなり本当に地獄です。

◆◆◆

誰でも本音じゃないと分かり切ってるのにわざわざきれいな言葉を使って
それっぽいことを言ってその場を無難にしのぐのって、意味があるんだろうか。
退職のときの挨拶で、「楽しかったです」とか「こうしておけば、もっとよかったんじゃないかと反省しています」とか「この仕事ができてよかったです」とか。
退職に至るまでのもろもろを知っていると「嘘つけ!」と言いたくなるし、
そんな建前の挨拶に何の意味があるのか、とずっと考えていた。
全くの建前を言ってる人もいれば、過去のいい部分だけを切り取って話している人もいるだろうけど、
その時間、何の意味があるのか!??!?!?と。
そんなときに見た。手越さんの記者会見。

◆◆◆

記者会見、質疑応答の途中まで見ていた。手越さんは「円満退社だ」と言っていた部分に関して、そのあとのSNSの反応を見た感じはこう。

1.どう考えても円満ではないのにお花畑
2.自分に円満だったと言い聞かせているのか
3.これは手越側の最大限の配慮だろう
4.円満でよかったね!

どう捉えるかによってかなり印象が違うなーと。
事実は本人と相手方にしかわからないけれど、
少なくとも4だと思う人も少なからずいる。
何かと真相を暴きたくなりがちだけど、別に知らなくていいこともあるし、本人の中で落とし所があればいいということ。
そして、自分の考えや意志は包み隠さず話すけど、相手がいることは配慮して話すことってやっぱり大事なんだと、気づかされました。

◆◆◆

「本音と建前」って、本音が真実で、建前が嘘。
建前は上辺だけのことで、いい人ぶったり、取り繕ったりすることで
「いいことではない」という印象だった。
でも、調べてみると、違う解釈があった。
それは、「本音も建前もどっちも自分」だということ。
何事にも両面があって利己的な面や利他的な面があってこそ人間。
本音ばかりでもダメ出し、建前ばかりでも苦しくなる。
本音と建前の間で拮抗するのではなく、
本音と建前の一致こそがあるべき姿で、
バランスよくもっていることが大事。

◆◆◆

私は、どちらかというと建前優位の思考なので
苦しくない程度に本音を混ぜて、うまくバランスをとりたいな。
あと、苦しい建前でも本音を見抜いてスッと手を差し伸べてくれる人が
周りにいるといいな。


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