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29章 天狗さまのお告げ

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パソコンでメールの画面を見ていたまろみが、蔵子さん、これ見てくださいと手招きをした。
テーブルで講座修了者の一人に手紙を書いていた蔵子は、まろみのパソコンを覗き込んだ。
「講座のお問い合わせかな?」

 メールには、この十年間で三十七回も引っ越しを繰り返している弟のことが心配だという、姉からの相談メールだった。
 といっても、弟は五八歳、姉は六二歳である。
メールによると、小説家志望の弟は、書くことに没頭するために、洗濯や掃除、片付けなどの家事を放棄している。

 大学を卒業し、エンジニアとして働いていた頃は妻や子もいたが、愛想を尽かして十五年も前に出て行ったきり、音信不通。
 引っ越しを繰り返すのは、ゴミを溜めて、どうしようもなくなると次のアパートに移るからである。

北斎みたいな人ねえと、蔵子は思わずつぶやいた。
「え? 奥さん?」
わたしの滑舌が悪いから、通じないのかしらねと、蔵子は、あ、え、う、と、口を大きく開けた。
 ほんと、蔵子さんは単純だから、とまろみは腕組して見ていた。
「ところで、ホクさんって誰ですか」
蔵子は背伸びをして、頭の後ろで手を組んだ。
「浮世絵師の葛飾北斎、いわゆる奇人で、名前を変えることおよそ三十回、引越しは九十回以上だって。作品はあまたあれど、有名なのは『冨嶽三十六景』とか…」
「赤い富士さんとか、波がどどーっていうやつですね」
蔵子はうなずいた。
「北斎はそんなに引っ越ししたのですか」
「らしいわね」
「それなら、この小説家志望の人も北斎みたいになれるかも?」
「さあどうでしょう。それにこれはゴミ屋敷とは違って、確信犯だから」
「確信犯?」
「ゴミ屋敷の人は、あれもこれも抱え込むけど、本人はゴミだと思っていない…たぶん。だけど、この人はゴミを捨てるのが面倒なだけでしょう。それで、溜まったら次のところへ引っ越すだけ」

 まろみは再びパソコンに向かい、メールの続きを読んだ。
「メールによると、このお姉さんは、花屋とフラワーアレンジの教室を経営しておられるようで、忙しいから、弟さんのところには月に一回くらいしか行けないそうです」
「ゴミを片付けたいのなら、不用品処理の業者に頼めばいいけど、弟さんの性格や行動を変えるのは無理ね。本人にその気がなければ、変わらないでしょう。だから、わたしたちにできることはなさそう」
「それならそうと、蔵子さんが返信して下さいよ。わたしはうまく書けませんから」
わかりましたと、蔵子はパソコンに向かった。

 返信をして、ほっとした蔵子に、まろみが訊いた。
「どうしてそんなに、引っ越しができるのでしょうね。だって、家を借りるにも、家賃以外にいろいろものいりでしょう。そんな費用を考えたら、お掃除してくれる人を雇った方が安上がりのような気がしますけど」
確かにと、蔵子も考え込んだ。

 一週間後、事務所に突然来客があった。
メールで、ゴミを放置して引っ越しを繰り返している弟の相談をしてきた山本マリンだった。
「お返事をいただいて、わかってはいるのですけど、それでも、何とかならないかと思いまして、藁にもすがる思いでうかがいました」
 蔵子はマリンに椅子をすすめた。
薄いオレンジ色の麻のスーツを着たマリンはとても還暦を過ぎたようには見えなかった。
「両親が早くに亡くなったもので、わたしが親代わりのようなものでして、面倒を見てきたのですが…」
「しかし、どうしてゴミを捨てないのですか」
「それが、どうやら、分別が面倒なようです」
「はあ、確かに面倒だとは思いますが…それが本当の理由なのでしょうか」

 蔵子はマリンの様子をうかがった。
「正倉院さん、いえ、蔵子さんに嘘はつけませんね」
そこへ、まろみが冷たい煎茶を運んできた。
どうぞと勧めると、マリンはいただきますと一息に飲み干し、ああ、おいしかったとグラスを置いた。
まろみも蔵子の隣に座ってマリンの話を待っていた。

 笑わないでくださいねと前置きして、マリンは姿勢をただした。
「実は、天狗のお告げだそうです」
蔵子はぷっと吹き出し、まろみは口をあんぐり開けていた。
すいませんと、あわてて笑いをかみ殺した蔵子は、次の言葉を待った。
だから言いたくなかったのに、マリンは下を向いて、空のグラスを握りしめた。
「弟さんはどこで天狗に会われたのですか」
蔵子のまじめな問いに、マリンはグラスを置いてにっこりして答えた。
「高野山です」
「いつ頃のことですか」
「ある文芸誌の新人賞に応募して、最終選考で落ちた時に、落ち込んで、一人で山に行った時です」

 蔵子は頷いた。
「それで、どんなお告げだったのですか」
マリンは躊躇なく話し始めた。
「弟は自信満々だった最終選考に落ちて、自分には才能がない、小説家になるために会社も辞めたのにと、自暴自棄の状態でした。山中をさまよっているうちに、道に迷い、夜になったそうです。死に場所を探すようなつもりだったのかもしれませんが、疲れ果てて、岩陰でうとうとしていました。そこで、はっと気がつくと、目の前に背丈が二メートルもあるような天狗が現われたそうです。怖くてものも言えず、震えていると天狗が大声であっはっはと笑ったのだそうです。どうして、笑われるのかわからないし、相変わらず体の震えが止まらない。そんな弟の様子を見て天狗は、たかが、一回、賞を取れないくらいで、おたおたするなと言ったそうです」

 蔵子とまろみは、いつの間にかマリンの話に引き込まれていた。
「しかし、おれは、会社も辞めてしまったし…」
弟が泣き言を並べると、それが、どうしたと、天狗は面白がっている。
「わたしは人間の屑です。まるでゴミみたいなものです」
「ほう、お前はゴミか」と、天狗は顎に手をやって考え込んだ。
「それなら、ここで野垂れ死んで、土に還れ。そうすれば、世の中のゴミにもならず、山の獣も餌ができて喜ぶだろう」
「そ、そんな…」
ふふふと天狗は笑った。
「お前はゴミをバカにしたが、ゴミは元からゴミではないのだ。それにゴミを作るのは人間だけだ。お前の望みをかなえたければ、ゴミを捨てるな。よいな」

 言い終わるや、白い霧が立って天狗は消えてしまった。
「こういうわけで、弟はゴミを捨てられないのです。かといって、生きている以上ゴミは溜まる。だから、次々に引っ越して…」

 蔵子は、はぁーと気の抜けた返事をした。
「それで、蔵子さんはどうすれば良いと思われますか」
マリンは、天狗と、ゴミを捨てなければ願いがかなうという弟の話を信じている。
しかし、それは弟の妄想の世界ではないだろうか。
いやいや、そんな事を云えば、マリンは逆上するだろう。

ここは穏便におさめるしかないようだ。
「どうすれば、ゴミを捨てても良くなるのですか」と、蔵子が訊いた。
「はい、弟が小説で賞を取って、一人前の小説家として出版したら…」
失礼ながらその可能性は、まろみがノーベル賞を取るくらいではないかと蔵子は思った。
「弟さんがゴミを捨てるのはダメで、他の人なら良いのですか」
はい、とマリンは笑顔で答えた。

 おかしな話だが、本人は真剣なのだから仕方がない。
「それではビジネスホテルで長期滞在をされたらいかがですか。長期だと割引もあるようですし、掃除もしてくれてゴミも捨ててくれます。ほら、流行作家でホテルに缶詰めとかいう話もあるようですし、食事もルームサービスで、創作に専念するとか…」

まあ、その手がありましたかと、マリンは明るい顔で、こちらにご相談した甲斐がありましたわ、弟が賞を取ったら必ずお知らせしますと足取りも軽く、帰って行った。

 ほんとに天狗なんているんですかねと、グラスを片付けながらまろみは考え込んでいる。
もしかしたら、あの人が天狗だったりして…。

 そうかもしれないと言いながら、蔵子はゴミを出すのは人間だけだという天狗の言葉を考えていた。
猿も犬も猫も、バーゲンで違う柄の毛皮を買ったりしない。
電気製品も使わない。
そのうち、人間はゴミに埋もれてしまうかも…。
「こわい話ねえ」
蔵子のつぶやきに、まろみは天狗くらいへっちゃらですと答えていた。

 半年後、マリンが風呂敷包みを右手にさげて現れた。
「蔵子さん、おかげさまで弟が真田文学賞佳作になりましたのでお礼に伺いました、これはささやかなお礼の気持ちです」
風呂敷を解いて現れたのは角樽だった。
「すごい! はじめて見ました。中はお酒ですよね」
「まろみさんはいけるくちですか」
「わたしはイケてないですけど、お酒はダイスキです」
まろみをじろりと見た後、蔵子は疑問を口にした。
「おめでとうございます。作品は出版されるのですか」
「はい、秋には本になると思いますので、蔵子さんにもお送りします。ぜひ読んでやってくださいね」
「弟さんのホテル暮らしも終了ですか」
「はい、ようやくマンションに落ち着きました」
「あの、つかぬことをうかがいますが、出版するのにお金を払っておられませんよね」
「それがね、佳作なので100万円ですみました。優秀賞の人だけ出版社もちで、次点の人は50万で佳作は100万円です。選外の人は200万だそうです」
「なるほど」
「弟もよろしく伝えてほしいと申しておりました。本当に此度はありがとうございました」
「わたくしは何もしておりませんが」
「いえいえ、引っ越しを繰り返さずに天狗さまのお告げを守れたのも蔵子さんのおかげだと思っております」                          マリンは笑顔で事務所を後にした。

「よかったですね。この角樽、どうしましょう? あれ、どうしてそんな怖い顔してるのですか」
「あれは文学賞と称した自費出版ビジネスかもしれない」
「天狗さまのお告げはどうなったのでしょう?」
「それもどこまで本当か。天狗さまは弟さんの作り話で、気のいいマリンさんが掃除の嫌いな弟さんに騙されている可能性もあるしね」
なんだか力が抜けましたとまろみはソファに座り込んだ。
「でもよくよく考えてみれば、弟さんは本を出版できてホテル暮らしも解消、マリンさんも弟の部屋の片付けに通わなくてよくなってめでたしめでたしか。他人があれこれ口をはさむことではないかもね」
「それで、角樽どうします?」
「せっかくだからポンポン堂の恵比寿さんやひきとりやの小渕さんらと宴会しましょう」
「了解、連絡して日程調整します」
「急に元気になったね」
「あったりまえです。酒が飲める、酒が飲める、酒が飲めるぞー」
「のんきでいいわね」
「天狗さまのお告げです」                     「うそばっかり」                        

29章 終

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