「正しく」とか「合理的に」から一旦離れて、
今回は、ここ3週間の大学院での学びを経て感じたことを書いてみたいと思う。
当初の目的であった「ロジカルシンキングに寄りすぎたアタマを柔らかくする」はどうなのか?新しい気づきは?この先はどうなる?!など、今の感覚を、今書ける言葉で、書き記すことでこの先の変化が見えてくるかもしれない。
せっかくなので、タイトル通り「正しく」とか「合理的に」から一旦離れて、あまり整理しすぎず、説明的になりすぎず。
地層のように積み重なった「自分の考え方」
社会人を24年もできていると言うことは、社会人として求められるスキルや考え方を、最低限できているのだろう。もちろんもっと上手くできる余地はあるし、違う会社や仕事なら全く役に立たなかった可能性もある。とは言え、24年間働いたと言う事実は自分の考え方を構成していると実感する。
新しいことに取り組むことが好きなわたしは、24年間仕事をしてきて培った考え方を刷新したいと考えている。「ちょっとしたカイゼン」や「アップデート」と言うレベルではなく「刷新=リニューアル」である。(と書きながら、全く別の人間になりたい、と言うのとは違う。ムズイ。)
24年間と表現しているが、社会人になるまでの22年間の生活ももちろん自分の考え方を形づくっているだろう。いや、むしろ社会人になるまでの22年間ですでに考え方のベースはできているのかもしれない。
このようにして地層のように積み上げられた「自分の考え方」は、現時点では地層の一番上しか見えていない。確実に積み上げられたものであるにも関わらず見えるのは一番上だけだ。地中にはどのようなモノが積み上がっているのか?他人にはもちろん見えないし、自分自身でも忘れていて思い出すことができない。
普段生活している中では、この「自分の考え方」を形づくる地層を見ることはできないが、ボーリング調査や大きな地震による断層といった大きな事象によって地層が見えるようになったら何が起きるのだろうか?その地層を見て私は何を思うのだろうか?
見えない地層に思い馳せる
最近この地層に思いを馳せるような経験をしている。それは武蔵野美術大学での講義だ。
当初、美大出身でない私は授業で出される問に対して「正確に」答えようとしていた。正確に答えるために、問いの意味を正確に捉え、先生の意図を想定し、自分の学びはもちろん同級生の学びにもつながるような回答に頭を巡らせていた。
この時にフル動員していたのは、これまで地層のように積み上げてきた「自分の考え方」である。過去の経験によればこれが求められているだろう、過去の評価に基づけばこれが最も効果的な答えだろう、というようにこれまでの自分の考え方の延長線上で回答を導き出していたのである。
しかし求められていたのはそのような「正しい回答」や「合理的な回答」ではなかった。
現時点で自分が感じていることを誤解を恐れずに書くのであれば、美大はもとよりクリエイティブな領域で求められているのは「問に対して問い自体を疑い、新たな問いとして設定すること」ではないか。
この問いはどのような学びが得られるか?といった意図読みではなく、この問いによって自分は何を考え何を作り出すのか?という問いを自分に対して新たに設定することが必要であり、その新たな問いに対して自らの回答を作り出すこのプロセス自体が大切なのだと感じている。
それは先程の地層の喩えで言えば、地層をひっくり返したり、地層をぐるぐるとかき回したり、時間軸を所与のものとせず水平方向にボーリング調査をするようなことかもしれない。
自分の思考に対する新しい視点
この3週間で、ムサビの先生はもちろん、同級生からの問いによって、自分の地層・自分の考え方、に対して、これまでほとんど経験したことが無いような視点で思いを馳せることができている。
アインシュタインは問題の解決について次のような言葉を残したそうだ。
この言葉もこれまでであれば、「問題」や「次元」といった用語を「正しく・合理的」に定義し、自分の考え方として地層のひとつとして積み上げたかもしれない。
しかし、改めて読んでみると非常に味わい深い。この言葉を自分の地層の上にどのように積み上げていこうか?とワクワクする。
この先、自分の地層にどんなモノが積み上がっていくのか?土なのか?岩なのか?草木なのか?それとも生物の屍なのか?いずれにしても自分の意志を持って積み上げて行きたい。