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「連続」と「不連続」の連続性

今回は「連続」と「不連続」について、最近もんもんと考えていることを書きたいと思います。様々な領域での「連続」と「不連続」について並べてみることでなにか気づきを得られると良いなと思います。

音楽における連続と不連続 (アナログとデジタル)

まず最初に音楽における「連続」と「不連続」です。これはアナログ音源・デジタル音源とも表現され、アナログ音源の代表としてはレコードやテープなどで、デジタル音源はCDやmp3、そしてストリーミング配信などが挙げられます。アナログ音源は連続的な波(正弦波)になりますが、デジタル音源はサンプリングと量子化をすることで不連続な波(矩形波)になります。

音は空気の振動によって伝わりますが、その空気は窒素や酸素といった粒子から構成されているので、そもそも連続的な音というのがあり得るのだろうか?とも思うわけです。

絵画における連続と不連続 (スフマートと境界線)

つづいて、絵画における「連続」と「不連続」です。16世紀にレオナルド・ダ・ヴィンチなどによって確立された手法と言われ、重ね塗りをしていくことで、色相の変化を連続的にし境目が分からないようになります。一方で境界線を使って描かれる絵画ももちろん存在します。

このスフマート、確かに境目が分からないようなグラデーション担っているのですが、ここで使われている絵の具もミクロで見れば粒子からできているはずで、連続的な色というのはありえるのだろうか?とも思うわけです。

知識における連続と不連続

さらに、現在私が特に注目しているのが「知識」です。ここでも「連続」と「不連続」を考えてみたいと思います。知識の場合は「不連続」の方がイメージがつきやすい気がします。学校で言えば「国語」「算数」「理科」「社会」といった科目や、英検の「級」やTOEICの「スコア」などは、すべて区分され段階が定義されています。また、知識を教えるという意味では「先生」と「生徒」という整理も「不連続」的です。

一方で知識の連続的な状況としては、様々な知識を動員して活用するという「実践の場」や、先生と生徒といった関係性ではなく相互に知識を持ち寄って実現する「価値共創」などが挙げられます。

もしかすると形や重さのない知識は、本来的に「不連続」なものではなく「連続」なものとして捉える必要があるのかもしれません。

「連続」と「不連続」の連続性を考える

ちなみに、「不連続」という言葉は「連続ではない」としか言っておらず、状況を説明する言葉としては「連続」が主になりそうな気がします。しかしここまで見てきた通り、この世界に完璧な連続ってあるのでしょうか?この世界が「粒子」で構成されていると考えると「完璧な連続」というのは存在しないような気もします。

この粒子を物理学では「量子」と呼び、Wikipediaにはこのように記載があります。

量子(りょうし、quantum)は、物理学において用いられる、様々な物理現象における物理量の最小単位である。主に巨視的な物理を取り扱う古典力学では、物理量は実数で表される連続量だが、量子力学では、量子を数え上げたものとして扱われる。たとえば電気量は、電気素量の整数倍の値となる

wikipedia 「量子」より

この世界がこの量子で構成された不連続な世界とするならば、概念として完璧な連続な世界を考えることは可能であり、また「不連続」から「連続」への連続性を考えることもできると思います。

というわけで今回は「連続」と「不連続」について哲学っぽく認識論的に考えてみました。哲学の話は小難しくなりがちだけど楽しいので、是非一緒に話しましょう!


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