見出し画像

わたしの神様が消えた日

いつだって物事は表面しか見えない。一度に反対側を見ることはできない。
なんてかっこいい事を言ったって上手く伝わりはしない。大抵、人は話を真剣には聞かないし、他人にはあまり興味がないだろうから。

去年末、わたしの大好きな人が死んだ。

彼女は創造の神様だと思う。表現でわたしを救ってくれた、美しき女神様みたいな人。
わたしはずっと魂が見たかった、でも見えないように笑って隠す人だった。
そういうところが聡明で弱々しくて堂々としていて可愛らしくて愛おしくて、大好きだった。
亡くなったという記事が目に入ったとき、どうか事故じゃありませんように、と思ってしまったわたしは、道徳の授業を馬鹿にしていたあの頃と同じ、社会的に性格の悪い人間なのかも知れない。
わたしの感覚は世間一般的には冷酷だとか言われるのだろう。
言葉を失って狼狽えるより、一刻も早くお悔やみの言葉を発する方が、どうしたって徳を積んでいるように見えるから、社会的に得をする。

私はそれを残酷だと思う。
言葉を失くしてしまう方が信用できるから、私は社会から排除されてゆくのだろう。

わたしが思うに、彼女の命は彼女のもので、彼女自身にとって一番尊い存在のままで在って欲しいって身勝手にも思ってる。それはこの世に生きる人間全員に、まぁそうじゃない人もいると思うけど、それが幸せだと、わたしはそういう価値観で生きてきた。
だからこそ、即座に思ってしまった。
どうか最期は彼女の命が、彼女だけのものでありますように、と。
どうか、どうか、雪の日が似合う彼女まま、彼女の意思でありますように。そう思って記事を読み漁った。

そうしていてもわたしは結局、数時間は受け入れられなくてずっと狼狽えていた。
でも夜になって、それはもう枯れてしまう程にようやく泣いた。
あの時に死んでしまえばよかったな…なんて、死ぬのが怖くなかった高校時代の思考回路でそう思った。
よく、あの漫画が完結するまで死ねないだとかいう例えがあるけれど、永遠に彼女の歌がもう産声をあげることがない世界にわたしは戸惑うばかりだった。
だって、同じ時代を生きる神様が急にいなくなる事に備える余裕は今までの人生になくて。
頭が働かない、何をしていいのか分からない、動きがゆっくりになっていく。
その時にふと、わたし生かされてしまった、と気がついた。
神様のいない世界なんて嫌、と嫌がっていてもわたしの心臓が動く限り、彼女のいた世界から離れなくてはいけなかった。
心臓を止めるか、彼女のいた世界から4次元的に離れてしまうか。
わたしは選んでしまっている、生きる方を。そう、彼女がいなくても生きていける自分になってしまった。
それが寂しくて、またわんわんと泣いた。
やれ芸術だ才能だ美しさだ表現だと、陶酔しなくても二本の足で雑踏に紛れることができるくらいに、わたしに生きることが当たり前みたいに馴染んでいる。
ショックだった。
いつでも死ねるという、自分自身という、人質がいなくなってしまっている。
それが怖くてまた泣いた。
繰り返し繰り返し、彼女のいない世界で、知らない自分を知って、泣き続けるのだろう。
そしてたまに背負いきれなくて、膝から崩れ落ちては、でも結局自力で立ち上がってしまうのだろう。
そんな強かな自分になっている。すっごくダサくて、でも喉から手が出るほど欲しかった普通という名の冷ややかな残酷さ。
だからわたしはまた平気な顔をして取り繕う。
ニコニコと笑ってから、数日後に、まただらしなく泣いていた。

あれから半年と少しして。

運命を信じてる?
出会えたことは決められていたと思う?
YouTubeのおすすめは運命?それともアルゴリズム?
また一つ、私は現実的につまらない人生に足を踏み入れる。

わたしはサプライズが嫌いだ。

嬉しさよりも、相手の準備や手間を考えて申し訳ない気持ちに夢中になってしまうから、祝われていることに夢中になれない。
でもこれは、サプライズというより絶望に近かった。
胸の中をほじくりだして、掻きむしってしまいたい気分だった。
彼女が望んだ死ならばそれで良かったと思って、わたしは彼女のいない世界で生きることを決めたのに、そうして平気な顔して歩いていたのに。
彼女が”アイドルになりたかった”とか、今更知って、わたしはどう生きていけばいいの?
彼女の死を初めて知ったあの日の気持ちに無防備に晒される。
うちのめされている。
この世界は、彼女がアイドルになりたくて、アイドルになろうと決めていたのに、なれるところだったのに、少し楽になった筈なのに、それでも、なれなかった世界なのか。
そう思うと、どうしても消化できない気持ちばかりが堆積していく。

そもそも彼女は公の人で芸能人と呼ばれる世界の住人で、わたしはただのファンで、彼女と話したこともなければ、本当に何も知らない。見えるところしか見ることはできない、はじめから。
だからこそ、この曲は私の知らない彼女の姿を映している。そのはずだ。
なのに、彼女が歌う姿が当たり前みたく想像できてしまう。
グループのセンターにいて、どんな衣装でどんなメイクで、どんな風に歌うのか。それはもうとびっきり可愛くて魅力的で美しかっただろう。
なのにこの音楽と彼女が居ない世界があまりにチグハグで、わたしは勝手に置いていかれた気持ちになってしまう。
だって、こんなにも愛が深くて、解像度が高くて、切実に祈るような、捧げるような音楽を私は知らない。
だから何度も聴いた。聴いてはやっぱり泣くことしか出来なかった。
もうぐちゃぐちゃで、何も思い浮かばなくて、ただずっと何故か涙が止まらなくて、猛烈に悲しかった。
音楽が優しすぎて、言葉に包み込むような愛を感じて、孤独の中にいる彼女の輝きをみとめて、それがわたしのの知っている彼女の輪郭をなぞるようだったから、それが感じ取れてしまったから、彼女の死から半年以上経って、ようやく彼女がこの世界に居なくなったのを、”初めて”実感した。
喉が締まった。
ただ、悲しかった。
でも、だからこそ、この曲のおかげで、わたしは現実に目を向けて受け止めるか選択できると思った。
四次元的な、時間的乖離ではなくて、わたしの気持ちとして、自ら彼女に近づき花を手向けられるかどうか、これはそう言う話だ。

絶対絶望絶好調。

この曲『Tiffany Tiffany』を作った大森靖子さん(普段靖子ちゃんと呼んでいるので以下靖子ちゃん呼び)の音楽は、わたしを”死”や”絶望”から救い出してくれた一人で、それこそ彼女と同じく神様のような、いやめちゃくちゃ人間なんだけど、でもやっぱりわたしだけの神様にしてしまいたくなるような、そんな超歌手。
高校生の頃の女神が彼女だとしたら、靖子ちゃんは20歳までに死のうと決めた事により生きられていた頃のわたしの女神さま。
ああ、「青い部屋」を聴いて何度絵を描いたかな。
実家から上京した東京のワンルームに帰る深夜バスで何度「アナログシンコペーション」を聴いて、家族の毒に苦しむ度に何度「Family name」を聴いたかな。
不安障害で怖くてパニックになっていた日に生きる闘争心をくれたのも、音楽を言葉を生み出して歌っていた靖子ちゃんだったから。
生きるのを嫌がるわたしに世界への未練をくれたのは彼女で、立ち上がるのを怖がるわたしを鼓舞して奮い立たせてくれたのは靖子ちゃんだった。
生命が不安定な時期、2人が私の命を音楽で繋いでくれたと言っても過言じゃない。
だって私は20歳をゆうに超えても、ヘラヘラと生きている。
お腹が空く、明日の事を考える余裕がある、たまにスタバにだって言っちゃう、人にいい顔だってそれなりに出来る。
そして、絵を描いて生きている。
この世界の端っこに小さな席を設けて、描いて、整えて、叫んで、泣いて、感謝して、絵を売って、また感謝して、身動きが取れなくなって、でもご飯が食べれる事にまた感謝して、描いて、描いて、描いて…夜は疲れて眠る、強かな命。
絵を売るたびに思う”また絵が描ける”という事実が、わたしのさいわい。
自分の事しか考える余裕はないけれど、生きる方を選んでいる事に胸を張れる。
だからわたしも真似っこの芸術をしてる。

絵の仕事を始めた時、彼女と一緒にお仕事をするのが目標だった。
だから”美少女画家”と名乗った。本当は一緒にお仕事したかったけれど、それくらい有名になるつもりでいたけれど、いなくなってしまったから、今は少し見失って、2人が繋いだ命を、芸術を、表現を、自分の生み出す絵への愛を、わたしはわたしの、たくさんの神様たちにコラージュされたちょっと自己中な世界を、描き続けて作っていく。

ずっと好きだよ、ずっと感謝してる。
どんな人間だろうと、どうだってよかった。
汚くても、狡くても、ボロボロでも、最低でも、残酷でも、どんな形だって、わたしにはとても美しくて尊くて眩しくて柔らかいから。

じゃあね、もうこの世にはいない、大好きな神様、ほんとうに、さようならね。


2022.10.29 クラカノコ


上記に挙げた大好きな曲たち


よろしければ、サポートお願いいたします!いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます…!!