空に光る
新居に越してきて2週間も経った頃、ようやく図書館へと赴くことにした。
けれども、向かう最中でとある事実に気付いてすぐに踵を返すことになってしまった。
現住所を証明するものがなかったのである。
そう、図書館は日本全国どこに住んでいようとかまわないのだが、しっかりとそこに住んでることを証明する身分証明書がないと本を借りることはできない。(実際は地域によって、市外・県外の人が借りられない場合もある)
しばらく本が絶たれていて飢え始めていた頃だったのに、しょぼくれながらも図書館に着く前に気付けてよかったと自分を褒めて帰り路についた。
家に帰って、これから通勤の時に何を読もうかと本棚を眺める。
高さ70cmくらいの3段のカラーボックスには50冊ほどの本が入っていて、どれも3度以上読んだものばかりだ。
図書館を愛用していることから想像つくかもしれないが、私はあまり本を所持していない。
かさばるのを嫌ってのことなのだが、それでも大切な出会いをした本たちは読後に買い求めて手元に置いていた。
今度はどれを読み返そうと視線を滑らせる中で手に取ったのは、坂本真綾の『満腹論』という本だった。
歌手・俳優・声優として活躍する彼女が2009年から5年にかけて連載していた食に関するエッセイを集めたもので、最中に5週間にわたるヨーロッパ一人旅や30歳、歌手デビュー15周年などの節目を経験している。
私が彼女を好いた理由は、当初その失われない少年性のある声に個性を見出していたからだけれども、時を経るごとに奔放でいて素敵な大人を志す人柄にも大きな魅力を覚えるようになってきていた。
月1回見開き2ページの内容は、短いながらも彼女の人生の大事な時間と心の軌跡が描かれていて、それらをちょっと間の抜けたキャラクターをイメージさせる『満腹論』というタイトルが包み込んでくれている。
大好きな一冊を、また数年ぶりに読み返すことにした。
食に関する話をする時に、もっともポピュラーな話題はなんだろう?
そう考えた時に多くの人の理解を得られそうなことのひとつに、「最後の晩餐」があると思う。
もっとかみ砕いて言えば「死ぬ前に何を食べたいか」ということだが、『満腹論』の中でもそれに触れる挿話があった。
世の皆さんが想像するような、”死ぬ前にスイーツを食べたい女子”なんてわたくしの周りには一人もいませんよ!という論調から、やっぱりお袋の味なのよねと帰結していく話なのだが、これを読んだ私もやはり自分はどうだろうかと、人生何度目かになるこの問いについて考えてみた。
どうしてももう一度食べたい、と長年思い続けているものがはっきりと一つある。
私が15歳の時、間もなく中学を卒業して高校に進学しようという頃合いで、地元の名物料理店を回ろうという企画が気まぐれな父の発案で行われた。
食べ盛りな私と兄を見込んで一日に何店も回る予定だったのに、私たちの胃袋が期待外れだったのと調子に乗ってあれよこれよと注文する父のせいで、2店舗目で出陣した父・母・兄・私のお腹は限界。
残りのお店は後日にしようとなって、そう家族も集まらないものだからどんどん時間が流れていっていた。
4月になって、来週には高校の入学式があるという段の土曜の夜、ようやく父は前回の続きをしようと私に言ってきた。
兄は予定があったし、母は体調の優れない時期だったから2人だけれども、父としても続きをやっておかないことには歯切れが悪かったらしい。
私も歳頃だったから正直に言えば面倒ではあったけれども、やっぱり前回のお店がおいしかったし、次のお店にもと期待する思いがあって承諾した。
ところが、翌朝目が覚めると体調が悪い。
だるさと熱っぽさがあって、食欲も湧かないしこれは明らかに外出どころではない。
だがしかし、いつも早朝近くまで起きて昼まで寝ている父が、この日のためにと8時に起床して朝ごはんも軽めのものに抑えている。
…言えなかった。
まだこの時点で風邪をひいたとは認めたくなかったこともあったし、何より意外なほどに楽しみな様子の父。
結局何も言うことができず、予定通り父と二人でお店に繰り出すことにした。
向かった先は町の洋食屋だった。
お店は車がギリギリ2台行き交うことができる道路に面した大人しいたたずまいで、田舎なのに車は3台しか止める場所がなく、店先に植えられた小高い木々がひっそりとかわいらしい。
ベルの鳴る木の扉を開いたら、やさしい奥さんが迎え入れてくれて、奥では無口なおじいさんが調理をしているような、そんなやさしい雰囲気が作られている。
着く頃にはもう帰ることを考えるような体の具合だったけれども、中に入ると小康を見せた気がした。
注文は迷うことなく、父の勧めるビーフシチューに一直線。
セットとはいえランチで2000円もするビーフシチューがどんな料理か全然イメージできていなかったけれども、いくら体調が悪くても成長期で普段は大食らいな私ならそれくらいなんともないと思っていた。
少しして、前菜となるオニオングラタンスープが運ばれてきた。
まず浮かんだ感想は、汁物に汁物を付けるのか?というつまらない疑問だった。
けれども、体調が悪化する前に出てきたものを早く片付けようという一心で口にしたそれは、そんな料理に対しての失礼にもあたる心構えを吹き飛ばすようなものだった。
美味しい。
おいしいじゃなくうまいでもなくて、美しいものを目や耳で捉えた時のような刺激が、味を通じて舌から全身に伝わって体が反射でびくんと動いた。
視線を上げた先で父と目が合う。
「おいしい…」
余韻が空間に見えそうな私の言葉に、父も呼応して「うまい」を繰り返す。
よく見る漫画で料理を食べて涙を流したり、饒舌に語り出したりする人に現実感を持てずにいたけれども、その時の私といったらどれほど濁っていた瞳に火を灯して父にその感動を伝えたことだろうか。
ゲームをしていて、死にかけの状態でも食べ物を食べてすぐに戦えるようになる理屈がわかる気がした。
その後運ばれてきたメインディッシュのビーフシチューは、私が見たこともない、汁気が少なくて肉塊にデミグラスソースがかかったような、おおよそご飯にかけて食べることはない一品で興味をそそられた。
とても気品があって大人の世界を見せてくれる料理だったけれども、残念ながらオニオングラタンスープの感動には及ばなかった。
これまた顔を上げると父も同じような反応を見せていて、「おいしいけど…」という言葉を一度言ったらそれ以上はなく、2人して静かに平らげた。
お店を出ると、私は父に体調が悪いことを告げた。
父はやっぱりか、という反応を示したけれども、オニオングラタンスープのおかげで全部美味しく食べきれたと言うと、少し満足そうだった。
その日の2店目以降は中止になったけれども、仮に元気と食欲に余裕があっても、真っすぐ家に帰っていたかもしれない。
当時15年生きてきた中で、寸分の疑いもなく”人生で一番おいしかったもの”だった。
この話には少し続きがある。
1か月後、父はもう一度そのお店に行った。
もちろんメインディッシュのビーフシチューでも、絶品と評判のカニクリームコロッケでもなく、オニオングラタンスープを求めて。
今度は母にその感動を分けたくて、時間を見つけて足を運んだのだった。
だが、帰ってきた父は開口一番「違った」と言った。
何でも、前回同様ビーフシチューにオニオングラタンスープのセットを頼んだ父は即座に前回との味の違いに気づき、生意気にも店員さんを呼んで確認をしたらしい。
すると返ってきたのは「シェフが替わりました」という衝撃の言葉だった。
こういう時、父は違いに気付けたことに「オレの舌も大したものだろう」という自信を持つタイプの人間なのだが、さすがにショックの方が勝ったのか、あまり得意ぶった様子は見せなかった。
私も考えていた、「もうあのオニオングラタンスープを味わうことはできないんだ…」という歴然たる事実を受け入れたくなかったんだろう。
後から知った話では、あの洋食屋は若き日の父と母がデートで訪れた場所だったようだ。
いつかもう一度と思っていた味は、ほんの一か月ほどの間にもう二度と味わえない幻の味へとなってしまっていた。
あまりにその味が恋しい私は、2,3度その味を再現できないかと画策してみたことがある。
高校を卒業するまでの実家にいる間は、夜10時頃になると夜食を作って父と食べるのが日課だった。
それは夕飯の残りやインスタントラーメン、レトルトカレーなど手間がかからないものが主だったけれど、時たまチャーハンやら親子丼やら、少しだけ準備に時間をかけるものを作ることもあった。
その延長線上としてあのオニオングラタンスープの再現を試みたのだけれども、結果は言うまでもない。
あの至高の味には遠く及ばず、いくら値の張る調味料を使っても、玉ねぎを1時間炒めても、ちょっといい普通のオニオンスープの域を脱することができなかった。
父も私も言葉数少なくそれらを食していく内に、いつしか再現を諦めるようになっていった。
それから5年ほど経って、私は高校を卒業してから2年浪人し、大学に進学して一人暮らしを始めた。
その間に居酒屋のキッチンで2年弱のアルバイトを経験して、吝嗇な性格も影響してか毎日自炊をしていた私は少なからず料理の腕に自信を持っていた。
友人たちを招いて夜通し遊ぶことも多く、時には私がすべての料理を作ってもてなすこともあった。
生地からピザを作ったり、コストコの巨大なステーキを焼いたり、冬場ならじっくり出汁をとった鍋を囲んだり。
とある縁から再会した中学の頃の友人たちとは四季の変わり目くらいに集まっては私が作った料理を食べて、ただ談笑するだけのような会も行っていた。
旧友ばかりということもあって昔話や地元での話に花が咲くことが多かった。
誰々は今どこにいて何をしているだとか、あのお店は潰れちゃっただとか。
みんな実家にいて、地元から車で1時間半ほどの場所に住んでいた私のところに集まっていたから、卒業したら地元に帰ってきなよともよく言われた。
「〇〇駅(地元の最寄り)の前に料理屋出しちゃいなよ。」
少しマイペースな子がいて、その子とは全然恋仲とか浮いた話はなかったんだけれども、親しみを込めて下の名前で「アイちゃん」って呼んでいた。
そんなアイちゃんが、ある日冗談交じりだけどちょっと真顔でそんなことを言うものだから、私も少しだけ未来を夢想してしまった。
すぐに腕前も思い切りもないから「3億円くらい空から降ってきたらね~」とごまかしたけれども、たしかにそういう世界も悪くない。
その後もアイちゃんとは何度かそんなやりとりをすることがあって、いつしか私も歳をとってすべてを仕舞う支度をする時には、地元でそんなことをするのもいい最期かなと考えるようになっていた。
アイちゃんは素敵な女性だけれども、一生独身でいる気もする。
客なんか来たらその日はツキがあるってくらいの閑古鳥が鳴く店で、私は一日ラジオを聴いて本を読みながら、夜になったらアイちゃんや地元の仲間たちが気まぐれにきて、家で作るにはちょっとめんどくさいくらいの、だけど大して高級感もない料理とお酒を出す。
〆には何十年も研究を重ねて編み出したレシピによるあったかいオニオングラタンスープを出して…
実は、高校に進学する時、普通科の高校にしようか、私立の調理科のある高校にしようか迷った末に、普通科の高校を選択していた。
料理の道に将来を固めてしまうことへの不安と、私立の学費を気にしてのことだったけれども、本当に普通科の道を選んでよかったのかという思いはノドに刺さった魚の小骨のようにずっと残っていた。
だから高校入学を目前とした春先のあの感動は、自分の選択が正しかったのかを何度も問うてくるものだった。
次第にそんなことも忘れて目の前の普通科での生活に没入していったけれども、料理が生活になじんできて、30歳を目前にした今になっても、あるいはたどっていたかもしれないもう一つの自分の未来を眠れない夜に思ってしまうことがある。
こんな文章を書きながら、私はふと思い立つ。
数年ぶりにオニオングラタンスープへの挑戦をしてみることにしたのだ。
いつか小料理屋を開くのだとしたなら、そこまでにどれくらい近づいているのかを確認しようという思いもあった。
暇を持て余しているということもないが、思い立ったが吉日。
玉ねぎのみじん切りから入り、じっくり一時間ほどかけて調理を行った…
トマトスープができた。
ドウシテ。
コンソメを切らしていたからである。
涙を流しながら玉ねぎを刻んで、レンジでチンしてから30分ばかしもバターで炒めて水を注いだところで、ハッと気づいたのだった。
引越し前、切れかけのコンソメを買い足しておかなかったことを。
後には引けず、水に浸してしまった玉ねぎをどうしようかと考えた。
せめて水を入れてなければ冷凍する道があったものを…
ひとしきり迷った末に棚を漁って、トマト缶を見つけるともう迷うことはなかった。
缶の中身を鍋に開けると、旨味出しのためにベーコンを追加し、刻んだじゃがいもを投入した。
塩コショウで味付けをして、足りない旨味は鶏がらスープの素とトンカツソースに、ほんの少しのカレー粉を。
ちょっとエキゾチックな風味の中に、ソースのあまじょっぱさが見える、あったかいトマトスープができた。
この真夏の熱帯夜に、体がポカポカしてきそうなスープを飲みながら改めて数十年先の未来を想像のスケッチブックに描いてみる。
おいしいからいいよね、と、呑気なアイちゃんたちの声が聞こえてくる気がした。
満腹。
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