言葉に願いを、風には歌を。
この春に7年連れ添った恋人と別れて、早半年が経過した。
早、とは言うものの、具体的にいつ別れ話が挙がっていつ彼女が出て行ったのかは覚えていない。
ちょっと自分のツイートとかを見返したら4月に一度目の別れ話をしていて、5月に結論を出してたらしい。
思い返してみればそれから立ち直って引越しをしてで、まだたった半年かの方が正しかった。
別れた日のことをはっきりと覚えていないことに驚く。
私は最近物忘れこそ増えたものの基本的に記憶力が良くて、人と関わる中での印象的なできごとはたいてい覚えている。
彼女と交際を始めた日も覚えていた。
9月21日、Earth, Wind & Fireの歌う『September』どおりの日だった。
それが別れた日の記憶は笑えてしまうくらいに薄ぼけていて、まったく持って頭に残っていない。
私の中で無意識な抵抗力が働いているのか、不思議なものだと思う。
7年連れ添ったからとか、フラれたのが辛いとか、未練がましさは本当になくて、ただただ元恋人からの冷徹で私のことを人として見ないような扱いが悲しくて泣いていたし、その感傷を文章に起こすまでしていた。
山崎まさよしの『One more time,One more chance』なんて最初の歌詞を聴くだけで本当に胸がズキズキしたし、電車でうっかりカップルの前に立ってしまうと逆の立場もあったんだよなあとしみじみしてしまった。
そういえばこの歌を主題歌にした『秒速5センチメートル』に中学生の男の子が電車で遠く離れた地に住む恋人に会いに向かうシーンがある。
因果があるのかわからないが、別れ話をするきっかけになった出来事には電車が関連していた。
その日元恋人の友人と立川のボードゲームカフェに行く話があって、東京の東側に住んでた私たちは電車を乗り継いで1時間くらいかけて向かっていた。
道中彼女はなぜかずっと不機嫌で、話しかけてもほとんど反応がなかったし、乗り換えの時なんか黙って一人で行ってしまう始末だった。
現地についてお店に向かう途中、一人でどんどん先に行ってしまって、何も言わずにコンビニに入っていく姿を見た時、もう耐えられなくなって走って追いつき、なんでそんなことをするのかと訊いてから私は一人で電車に乗ってとんぼ返りをした。
電車経路やお店までの道を私が調べなかったことに腹を立てていたらしくて、彼女の言うことも確かなことだったかもしれないけれど、田舎者の私はずっと電車や東京の道が苦手で都会育ちの彼女にお願いしてきたから、そういう分業がされているものだと思っていた。
何より彼女と友人との約束に私は付いて行っただけだった。
とにかく私は無視がどんなことにもまして酷い仕打ちだと常日頃考えていたし、彼女にもそれは長年の付き合いで幾度となく伝えてきていた。
人にはいくら理由があっても、よっぽど相手に攻撃をする意図なしにやってはいけないことがあると思う。
私にとってのその一つが無視という行為だったから、彼女がわかっていてもいなくても私は酷く、酷く傷ついたし、もう30にもなろういい大人なのに人前でうっすらと浮かぶ涙を隠せなかった。
行きの乗車時間に見えないようにしていた二人の隙間は、帰りの乗車時間には虚空にじんわりと形を描いていた。
それから二度に渡る話し合い(とは言っても時間を費やしたのは「一旦それぞれ考えよう」と結論を濁した一度目だけで、二度目はあっさりとした「終わりにしよう」だった)をして、その後彼女が出て行くまでの一か月くらいはただ同じ屋根の下で過ごすだけの奇妙な生活を送った。
スイッチのオンオフを切り替えたように彼女は私を人として見なくなって、びっくりした。
翌日仕事がある私が寝る隣の部屋で深夜まで大声で笑いながら友達とオンラインゲームに興じ、やり取りはたいてい帰宅したときに机に無機質なメモが置かれているだけだった。
こんなにも心なくできるものなのだろうか。
でもその驚きはやがて、彼女がそういう人間だということを知りながらも目をそらし続けていたことに対するものだと思いなおしていった。
私はずっとわかっていたのだ。
7年も連れ添って、同棲して3年目を迎えようとしても、結婚しようと互いに踏み切れなかったのは相応の理由があったからなのだと。
時に将来の話をすることもあった。
でもどこに住むかや子どもができたらという、本来あたたかな日の光の下で話すようなはずの話のどれもが穴の開いた器を満たそうとするように手応えがなくて、実らない木に水をまいたり肥料を盛っているような気分になった。
それを紛らわすように楽しい時を必要以上に楽しく感じようとし、言葉に出して幸せを感じようとしていた。
何年も。
ここでもう一度書くけれども彼女に未練は一切ない。
仮に彼女が復縁したいと言ってきても、にべもなく突き返すと思う。(そもそも一度別れた人とよりを戻さないと私は昔から誓っている)
それなのに、未だに彼女と過ごした時を夢に見てしまうことがある。
甘美な記憶が蘇るわけでも、渇望して消沈するということでもなく、ただぼんやりと脳裏に住みついている平和な記憶がぽっと出てくるのだ。
何の脈絡もなくふと静かに抱きしめたり、ふとした思い付きで一緒に餃子を包んだり、夜の街をあてもなく歩いてコンビニでアイスを買ったり。
ああ楽しかったなあ、ああバカだったなあと思い出すのである。
「上海蟹食べたいあなたと食べたいよ」
音痴だと言いながらも、料理をしながら囁くように歌う私を彼女は好きだと言っていた。
休日の昼下がり、網戸を通り抜ける風を受けながら、二人寝そべって過ごしていたことを思い出す。
未練なんてない。
ただ、かけてしまった時間が長すぎただけなのだ。
Do you remember
覚えているかい。
The 21st night of September?
9月21日の、あの夜のことを。
歌は何度でも流れてくる。
あの時と同じ、柔らかな風に記憶を乗せて。
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